だらだらノマド。

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映画『君の名前で僕を呼んで』感想

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恋愛の究極形はやはり「半身」を追い求めることなんだろうか。「君の名は。」では、体を分け合う相手を見つけ、見失い、「カタワレ時」に再び出会い、忘却の果てに、再び巡り会うというのがカタルシスを生んだわけだけど、「君の名前で僕を呼んで」もまた、タイトルからしてド直球なカタワレ映画だった。

痛み、傷つき、それでも確かに得た愛や友情。目の前には限りない可能性が広がり、でも同時に決して戻れない輝かしい夏の日もまた瞳に映ってる。予感と余韻、どちらもなんて眩ゆいんだろう。

 

考古学教授を父に持つエリオ(ティモシー・シャラメ)は、避暑地の北イタリアで一夏を過ごす。毎夏、父が受け持つ大学院生が研修にやってくるが、今年やってきたのは嫌味なほど二枚目のアメリカ人 オリヴァー(アーミー・ハマー)。自信家で横柄なオリヴァーと繊細なエリオは反発しあいながらも惹かれていく。

眩い北イタリアの景色と考古学や哲学、音楽―。インテリジェンスな空気感をまといながら気持ちを通わせていく二人の様子が、あまりにも美しすぎて美しすぎて、脳内で幾度もビッグバンを起こしながら観た。(そもそもティモシー・シャラメアーミー・ハマーが美しすぎる)エリオは、オリヴァーへの悶々とした感情を押し殺して、自分を試すようにマルシアと関係を持ってみるけど、オリヴァーへの想いは断ち切れず、気持ちを吐露する。対して、もう十分大人なオリヴァーは、同性愛が社会的に許容されないと自分を律していながら、異国の地でその枷を外す。(エリオ家のようにものわかりのいい家族はそうそういない)オリヴァーのエリオへの愛情は確かに本物。でも、それを一生自分の胸にしまい込んで、異性愛者として生きる道を既に選びとってもいる。知性に溢れ大人びているエリオも思春期真っ盛り。この夏を機に、真っさらな人生へと漕ぎ出したばかりなのに、初めて知った愛が即座に「秘めた思い出」にされる、痛み、辛さときたら。と、エリオの想いに寄り添いつつ、この映画自体が、いい!とか面白い!というより、「また浸りたい」と思わせてくれる、きらきらと甘く、ほろ苦い、まさに「一夏の思い出」のようで。わたしにもこんな夏あったんじゃね…?とすら思えてくる。(思い込み激しめ)

ちなみに、どうやら続編の製作が決まっているようで、監督曰く、続編の冒頭はパリで泣くエリオから始まるみたい。全然吹っ切れてへんかった!だって、「カタワレ」だから。たとえ一緒に過ごしたのはたったひと夏でも、たとえそれが思い出に変わったとしても、「カタワレ」はずっと「カタワレ」だから。

ステレオタイプ的なオープンゲイのカップルたちの訪問、自らの同性愛気質を自覚しながら一歩踏み出せなかった父、古代ギリシアの肉体美と同性愛、とセクシュアリティについて散りばめられている。(そういえば、時々飛んでくるハエの意味が気になる)そして、夫、息子ふたりをセクシュアリティ含め深く理解し、何も強いず抑圧しない母と、エリオに一生の友情を誓うマルシア。誰も二人の仲を糾弾したりしない。古代ローマ遺跡で発掘された女神像の腕を介して、エリオとオリヴァーが握手するシーンが大好きすぎてケータイの待ち受けにしてるのですが、マルシアとエリオの握手もそれに負けないくらい、愛に溢れた素晴らしいシーンだった。