だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『天気の子』を観た話。

『天気の子』を観た。まず本編に行く前に『CATS』予告編が気持ち悪すぎて、体調崩しかけた(大袈裟ではなく本気で)。『CATS』を知ってる身ですらこれなので、全く知らない人が観たら卒倒しません…?大丈夫…?と言いながら予告を貼る。

 

さて、『天気の子』の話。

緻密な作画で描かれていたのが、「君の名は。」で三葉が胸をときめかせていた、あのキラキラした東京ではなくて衝撃を受けた。光輝くのはラブホ、風俗店の派手なネオンにバニラ求人の広告車。空模様に呼応するように、都市の暗所しか出てこない。降り止まない雨の中、濡れねずみになって「東京、こえぇ…」と呟く穂高。瀧の身体を借りた三葉とは雲泥の差で、よそものの居場所なさが辛い。かたや両親のいない陽菜も、家はあれど養育者はおらず、子供二人での生活は社会的には容認されてない。おまけに、お金のために、性搾取されかける。「君の名は。」でも分かり合えない大人は出てきたけど、それでも説得を試みてカタストロフを回避できた。かたや『天気の子』では、大人たちから、そして都市から疎外された子供達は、ひたすらに逃走するか、もしくは公的な権力にすら拳銃を向けて歯向かう。爽やかなジュブナイル映画にさせてくれず、アウトロー達のクライムムービーになってしまう。
一方で、降り止まない雨って「方舟」とか「雨がやんだら」のように世界の終わりを連想するけど、街の人たちが命の危険や社会崩壊への危機感や悲壮感を抱く様子も、行動を起こす素振りも描かれず、いたって無関心に見える。(フィジカルな危険性に触れられるのは喘息くらい?水害での死の描写は一切ない)かと思えば、穂高のモノローグで語られる通り「ただの空模様に、人間はこんなにも気持ちを動かされてしまう」もので、陽菜と穂高が立ち上げた晴れ女ビジネスに依頼が殺到するし、SNSハッシュタグには晴れ乞いの言葉が無邪気に並ぶ。自分の願う範囲内、時間だけ晴れれば気が済んでしまう。

都市ー地方の格差、災害の当事者と非当事者の記憶と忘却を扱った「君の名は。」から3年。都市の中にも憧れの暮らしはなくて、若者たちが貧しい暮らしを余儀なくされている。そして、もはや自らが当事者になっても無関心、忘却し続けて何も行動を起こさないばかりか、他人(次世代を担う若者)への搾取や代償を気づかないフリして(もしくは想像力が退化し)無邪気に欲望を曝け出す、という、くるとこまできた感があり、自然と「わたしの星」のラストの改編や、グレタさんのことも思い出した。

結局、陽菜の命と引き換えに東京は水没する。穂高の「大丈夫」には、「全然大丈夫ちゃうやんけ!」と思ったのですが、ただでさえ搾取され、社会から疎外されてきて、さらに、天気を操ることで自らを引き換えに(能動的ではなく無意識に)世界を救わされる宿命の放棄を、誰がとやかく言えるだろう。むしろ彼らは、世界と自分がつながっている、いわゆる「セカイ系」の自覚を獲得して、犠牲や代償の重みを理解した上での放棄、そして、雨の降り止まない世界を引き受けて生きていく「大丈夫」だから、やっぱり「大丈夫」に違いない。

くるところまできた世界の中で、問いが繰り返される。「愛にできることはまだあるかい?」「僕にできることはまだあるかい?」無関心の反対は愛。世界を変える最後の手段として、まだ愛がある。「愛にできることはまだあるよ」「僕にできることはまだあるよ」愚直に、未来への希望と願いが託されている。