だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

「彼らは生きていた」と「1917」

絶対にセットでみようと心に決めていた、「彼らは生きていた」と「1917」。1日でハシゴできるタイミングがあったので、行ってきた。(2月の話)f:id:kotobanomado:20200424163316j:plain

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「彼らは生きていた」は、第一次世界大戦の退役軍人らのインタビュー音声とカラー化した当時の映像や写真と組み合わせたドキュメンタリー映画。この映画に興味を持ったのは、NHKの「カラーでよみがえる東京 不死鳥都市の100年」に衝撃を受けたから。

www.nhk.or.jp

一口で言ってしまえば、白黒映像をカラー化するだけ。たったそれだけで、番組キャッチの「今日はあの日につながり、あの日も今日につながっている」通り、資料⇒手触り、息遣いが伝わる暮らしの断片に変わって、感じ方が全く違ってくるんですよね。(裏返せば、そんな簡単なことで感覚をコントロール出来てしまう危うさでもある)
映画の話に戻ると、かつての兵士たちが「獣のようだった」と表現する、前線での悲惨な生活や戦闘の様子、かたや人間性を繋ぎ止めておくためのちょっとした娯楽、そのひとつひとつがディティールまで圧倒的な手触りをもって迫ってくる。
同じく第一次世界大戦を描いたNTL「戦火の馬」も大好きな作品なのですが、途中、貴重な兵力として徴用された馬のジョーイが戦車と対峙して圧倒されるという劇的なシーンがあって、さらに残酷な殺し合いの時代の到来に衝撃を受けた。まさにその戦車登場のエピソードもあって、何とも言えない気持ちになってしまった。
映画を観進めると、映像が主役ではないことに、主役はあくまで元兵士達の生の言葉であることに気づかされる。綿密にカラーリングされた動画は、彼らの証言を補足、裏付けるものとして存在する。軍人としての誇らしさに胸を張る生き生きとした語り口から、友人の死や死体に次第に鈍感になってしまう恐怖、そして、戦争を生き延びても戦後待ち受けていた心無い仕打ちと虚無、そこから更に年齢を重ねて、老いた(そして今はもういない)彼らの生きた言葉の重み。想像以上に胸に迫るものがありました。

余韻を感じながら「1917」へ。

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テクニカル的にどうやってるのか全く見当がつかないけど、伝令のため、息つく暇もなく走り続ける主人公を追って全編が1カットに見えるよう撮影、編集された作品。塹壕をズンズン進み、そのまま有刺鉄線を潜り最前線へ向かっていく。さっき「彼らは生きていた」で見聞きしたばかりの塹壕、有刺鉄線、軍服が矢継ぎ早に出てきて、不思議な感覚だった。ただし、当り前だけど、全てが整然として美しい。歯や肌だって、死だって、あまりに綺麗すぎる。「彼らは生きていた」とはまた別のアプローチからリアルさ、当事者性を追求していて、「異次元の没入体験」というキャッチ通り、体験型・没入型(イマーシブ)の麻薬的な快感に溢れている。兵士同士の掛け合いがまるで舞台のようにカットなく続く前半から戦闘が激化する後半まで、カメラは自由に漂うように動き、各イベントを最も心地よく「体験」できるベストアングルで捉えていく。そのおかげで、知識なしに、手放しに、理解した風の体験ができてしまう。イマーシブ系のイベントに興味を持ち、その快楽を知っているがゆえに、例えば今回のような戦争映画の場合、サバイバルゲーム的に消費されるだけなのでは、っていう恐ろしさを感じた。(実際そういう感想もいくつか観た)多数の犠牲を負いながら見事伝令役を果たしたミッションクリアのシーンで映画は終わる。でもこれはゲームではなく「彼らは生きていた」。その先にまた別の地獄が待っていること、そしてそのもっと先が今に繋がっていることも忘れないでおきたい。