だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

10月のたしなみ。

10月も今思えばまだゆとりがあったー…。

 

 

ハウ・トゥー・サクシードフラッシュダンス

kotobanomado.hatenablog.com

ビリー・エリオット


ダムタイプ『2020』@ロームシアター

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ダムタイプ新作上映会を観にロームシアターへ。3月にロームシアターで上演するはずがコロナで中止になり、その時に無観客で収録したものを同じ場所でスクリーン上映するという珍しい形でのアーカイブ公開でした。しかも、音響は劇場の機材を使ってこの日のために仕込まれたものなので、上映会と一言で言い表してしまうには惜しいライブ感が。上映後はパフォーマーの田中さんと古舘さん、ロームシアターの橋本さんによる座談会もありました。

長いロープに繋がれた照明が振り子のように左右に大きく揺れている。セリ下げて奈落までぽっかりと空いた舞台中央の暗闇を一瞬照らしたかと思えば、パフォーマーの影を後方のスクリーンに投げかけたりする。このインスタレーション的なシーンに始まり、スーツを着た男性(女性が演じている)たちのジェスチャーコミュニケーション、そこから解き放たれたようなダンスシーン、女性の叫びに似たダイアローグ、まばたきのコミュニケーションと言葉の宇宙、ミュージカル的なシーン。振り幅広く展開するのだけれど、よくいえばいかにもダムタイプっぽい、悪くいえば既視感のあるシーンが多く、新しい何かは見出せなかったし、全体的な構成も非常に散漫とした印象で肩透かし気味。

わたしは卒論で触れたこともあって『S/N』に強い思い入れがあり、あの強い当事者意識をもった関西人としての自分の言葉やノリと、表現としてのメディアアートとダンスの緩急や結びつきがどうしても頭をよぎってしまうんですよね‥(それは酷とわかりながら)。両者が上手く接続されず、ちぐはぐなままだったように思います。最後の映像と池田亮司さんの音楽の中でのソロダンスでようやくピンと張り詰めた空気感が生まれて、目が覚めたような。

ところで、終演後、規制退場の場内アナウンスが入ったのですが、その後の係員たちの呼びかけがみんな囁くような小声で、しかも自信なさげで、まったく客が言うことを聞いていなかったのには笑えた。飛沫対策ゆえの小声だったんでしょうか…。

KYOTOGRAPHIE

学生時代からかれこれ10年程見逃し続けていたKYOTOGRAPHIEが最終日だったので、ダムタイプ終わりにまわることに。

ウィン・シャ展@誉田源兵衛

極度の方向音痴なので、スマホのマップがひとときもかかせないのですが、マップ上は目的地にたどり着いてるのになかなかそれらしき建物がわからず。とりあえずマップ上の目的地に入って昼ごはん。

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お店の人に聞くと、一つ向こうの通りでした…。すでに2.30人近くは並んでいて、20分ぐらい待ちました。入場料1000円。香港のアーティストで、ウォン・カーウァイ監督の専属グラフィックデザイナーという経歴の持ち主。どうりで、映画の1シーンのような作り込まれた世界観の写真ばかり。中華系の鮮やかな色味に退廃的なシチュエーションが合わさった蠱惑的な画の連続に思わずため息が。

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HPもエモが過ぎる。

www.wingshya.com

ピエール=エリィ・ド・ピブラック@京都府庁 旧本館

今回のお目当て。こちらも30分ほど並びました。場所からしてわくわく!

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パリオペラ座でダンサー達を捉えた写真。夢のように美しいバレエの世界を舞台外に移し替えた写真がまず目をひくのですが、舞台袖でスタンバイするとか楽屋でメイクするとかバックステージの一瞬を切り取った写真も、ライブならではの緊張感や高揚感が伝わってくるようで、ちょっとこみ上げるものがありました。

オマー・ヴィクター・ディオプ@京都府庁 旧議場

扮装をしたセルフポートレート恭しく飾られていた。

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コロナ予防という点では、各会場、検温と消毒液が必須でみつ回避のため入場人数制限あり。かおかつ安心登録カードなるものが配られ、入場時にQRコードで読み取って情報管理するという念の入れようで感染予防対策のシステム作りは素晴らしかったのですが、一方でオペレーションが若干気になってしまい。「混雑情報はTwitterで告知します」とわざわざ明記しているのに、情報がほぼ上がらず…。

本当は伊藤佑町家にも行きたくて、でもウィン・シャがこの状況だったら厳しいかなと思って諦めたから良かったものの、Twitterでやっと情報上がったのがいきなり「当日枠終了しました」だったので(前日は割と更新されていたのに)、おぉ…となりました。言ったからには定期的に発信して欲しかったな…。あと、この手のアートイベントはボランティアが多く、各人があまり情報を把握していないというのはあるあるだと思うのですが、京都府庁掲示もかなり不十分な上、係員さんが自ら告知することもなく、何の列なのかめちゃくちゃみんな迷ってましたね。あと、何分待ちなのか先頭地点にいる係員自身がわかってないという…さすがに…と思いました。今時LINEで簡単にやりとりできるわけで…解決してほしい。

鴻池朋子「ちゅうがえり」展@アーティゾン美術館

出張合間にぶっ込みました。とんだおしゃれビルでビックリ。これがTOKYO…。日曜美術館の京セラ美術館と同じ回でやっていて興味を持ったものですが、今思えば、TOKYO2021の時に見上げた美術館がここだったんですね。逆に、TOKYO2021側(戸田建設本社)を見てみる。すっかり取り壊されていました。

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「ちゅうがえり」展で最も感覚が刺激されたのは毛皮でしょうか。既製品の形になった毛皮コートのそばに、肉球もついたままの生々しい毛皮がいくつも天井からカーテンのように吊り下げられていて、その間をすり抜けられるようになっている。確かな命とそして死の証がいくつもあって、それがただ視覚に訴えてくるだけではなくて、すり抜けるときに肌に触れ合う感覚によって、なんとも言えないぞわっとした感じを生む。

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一方で、熊の毛皮の形に切り抜かれた布地に、さまざまな模様が縫い込まれたパッチワークがあって、その先には、自分の体験を自らパッチワーク風に縫い付けて紙芝居的な絵+文章にしたシリーズ(いわゆるいい話ばかりでもなく、他愛なかったりトラウマ的な話だったりもする)もあって、「パーツをつなぎ合わせ縫い付ける」=物語化という行為の儀式的な面白さを体感できる。熊のパッチワークに戻るならば、自然、動物、人間、文明のパーツがバラバラにならず縫い合わされることなのかも。そういえば、大地や樹々と大きな顔が重ねられた作品もいくつもありました。本来、世界は一枚岩ではなく、グラデーションがあり、様々なパーツが重ね合わさったり縫い合わさっているはず。それをTOKYOのお洒落ビル(わたしは田舎者なので、誰かセンスの良い人たちによって幾分の隙もなく洗練され、管理された空間が広がっていると不安になってしまう)で味わうのも皮肉な気がした。

展示のメインは円型に配された襖絵の中央に滑り台で滑り込んでいけるエリア。巨大な宇宙の中に自ら生まれ落ちていく感じ。

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印象派展やヴェネチアビエンナーレ日本館の展示もあって充実してた。

新宿由縁

出張で行きたい宿に行くシリーズ。グレイスリーのゴジラノベルティ付きと迷った挙句こちらに。gotoを使わなくても楽天クーポンだけで1万円以内で泊まれました。場所が場所なので到着時の感動はないけど、一応、アプローチは旅館風になっている。

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館内はおしゃれモダン。

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お部屋は狭いながらもたたきがあって靴を脱いで畳に上がれて、それだけで普通のホテルとは違った特別感がありますね。トイレとシャワールームもコンパクトにまとまっているし、作業台もあるので、ストレスなくのんびり過ごすことができました。

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そして、一番の楽しみは18階の露天風呂付き温泉。

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コロナ対策としてQRコードで混雑具合が確認できるようになっていて「空きあり」の頃合いを見計らって行ってみると、ほぼ貸し切り状態。200室近い規模感からいうと、お風呂も脱衣所もかなり小さめなので、繁忙期はキツいかもしれないけど、この日は贅沢に過ごすことがでかなた。肌寒い1日でいつの間にか体が冷えてたし、この前週もずっとホテルにいたので、足を伸ばして肩までお湯に浸かって、体の芯までほぐれていくひとときが本当に幸せで、温泉最高すぎでは…?と当たり前過ぎる感想に至った。

露天風呂からは煌々とした新宿の夜景が。普通の温泉地の湯船から見える景色とはあまりにかけ離れているので不思議な気分になりながらも、高層ビルから丸見えだろうなと我に帰った。リラクゼーションルームはいい感じのBGMが流れていて、ゆっくり夜景を眺められる。

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明滅を繰り返すビルは、まるで宮島達男氏のインスタレーションのようで、take freeのアイスキャンディを齧りながら悦にいった。

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一転、魔法が解けたように現実世界が広がる朝。朝風呂も最高に気持ちいい。

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go to効果もあってか、近隣の学生〜20代カップルが多いようなイメージ。30代以上はここが旅行のメインにはなりにくいと思うけど、都内の人が小旅行気分を味わったり出張の+αの楽しみとしては十二分に素敵な場所でした。ちなみに、由縁は下北沢や北海道でも展開してるよう。次は由縁と同じUDSグループが経営するHAMACHO HOTELにも行ってみたい。

『スパイの妻』

wos.bitters.co.jp

2ヶ月ぶり?の映画館で見たもの。NHKでの放送を楽しみにしていたら、いつの間にかヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞を獲り、映画館で公開されていた黒沢清最新作。

太平洋戦争前夜の歴史もの。冒頭のカットから、画がドラマの軽さでたじろいでしまって、なかなか頭に入ってこなかった。技術的なことはまったくわからないけど、やっぱりスクリーンで観るには適切な画の重さがあるなぁ…と思ってしまった。セットやエキストラの予算感、スキルにもまたその軽さの一要因になっている。

黒沢作品の基本形として、いつの間にか知らないうちに世界が狂っていってる(あるいは終わっている)のに気付いた主人公が対峙するという構図がある。今回面白いのは、スパイの妻とひとつ「の」が挟まるヒロインを主人公にすることで、その狂った世界との対峙を間接的なものにしていること。この映画の中の狂った世界とは、満洲国での人体実験(731部隊)なのですが、実際にその光景を目撃したのは、夫(高橋一生)の方で、「14歳から変わらない」と称される妻(蒼井優)は夫が撮影したフィルムで夫の目を通して初めて世界を知り、夫と「真実」(らしきもの)を共有する共犯関係になることでロマンス旋風が吹き荒れて、能動的に夫の「高潔な行い」の手助けをしていく(この辺りはマキシムの殺人を知った"わたし"が愛の名の下に強くなっていく「レベッカ」にも似ていた)。ただし夫はそんなことはどこ吹く風で、飄々と笑顔で手を振りながらひとり国外亡命を果たしてしまう。かたや日本に置き去りにされた妻の方も、精神病院に強制入院させられてはいるものの、実際は正気を保っていて、いまや戦争で完全に狂ってしまった世の中を生き抜く術として狂人の「振り」をしている。間接の「の」が取れて、「スパイの(である)妻」のダブルミーニングが完成する。さらに、エピローグでは、夫婦の騙し合い合戦がまだ続いてるような風も見て取れる。

黒沢作品の登場人物は、最終的に狂った世界に感染したり飲み込まれてしまうのが多いけれど、この2人は「スパイ」として世を騙しながら、したたかに生きていく。90年代のあの暗くて先が見えない中言葉少なに不安だけが増大していった『cure』や『回路』から『クリーピー』『散歩する侵略者』『スパイの妻』と、言葉、そして具体性にシフトしていることや、狂った世界に立ち向かねばならぬ、という姿勢の変化に、今の情勢への危機感を感じますね…。それに、フィルムを通じて世界を感じ取った妻は、映画(メディア)の力を示すと同時に(ブラッククランズマンのように)、逆にメディアを通じて世界を知った気になる私たちそのものでもありその間接性の皮肉でもあるように思えました。

高橋一生は、とらえどころのなさはぴったりなものの映像の軽さも相まって必要以上に現代に見えてしまった。蒼井優は時代感を作り込んでいるのだけど、なんか中盤から粗が見えてしまった気がして…。わたしの中では、東出くん一人勝ち状態だった。彼は本当に気持ち悪い役が似合う。『散歩する侵略者』の黒沢監督な上に、後から『寝ても覚めても』の濱口監督が脚本に入ってると知った。そりゃいい東出くんになるにきまってるやん…!

『レベッカ』@Netflix

Netflixオリジナル作品。アーミー・ハマーがマキシム役ということで、かなり前から楽しみにしていた。さらに、Twitterで見かけた前評判に「屋敷内を不安げに彷徨うアーミー・ハマーマスタードを探してるようにしか見えない」という秀逸なフレーズがあって別の意味でも期待が高まっていた。マスタード的にはそうでもなかったんですが、確かに筋肉って大らかそうに見えるなってしみじみ思った。体格良くて筋肉ついてたら、なんか元気そうっていう学び。なので、ヒッチコック版のローレンス・オリヴィエやミュージカル版のUwe様のような影があって孤独で神経質で何考えてるかよくわからない雰囲気ではなかったですね。

対するリリー・ジェームズの”わたし”も、おどおどした自信なさげな、というより、上昇志向のある現代的な女性のイメージ。レベッカとは真逆の無知な打算のない女を選んだマキシム(一種のマウンティング)が、ラストの現在パートを見る限り、世の中をすっかり熟知しきった”わたし”にマウントを取られてました。

一方で、レベッカとダンヴァースの影は薄い。ヒッチコック版の炎にのまれるダンヴァース夫人という強烈なシーンがないせいもあるのかな。今回は全く違うダンヴァース夫人の死でした。

『もう終わりにしよう。』@Netflix

脳内ニューヨーク』(脚本で言うと『マルコヴィッチの穴』『エターナルサンシャイン』も)のチャーリー・カウフマン監督のNetflixオリジナル作品。老年期に差し掛かった孤独な男(何度も引用される『オクラホマ』でいうとジャッドにあたり、同時に帰省中に見た蛆虫がわきながらも生き永らえている豚にも自己投影されている)の回想とifの物語が現実世界と奇妙に入り混じっていく。それは『ララランド』や『つぐない』のような精巧で美しいifではなくて、陳腐でとりとめなく、救い難いほど現実世界に侵食されてしまい、どんづまりになってしまったif。なるほど確かに「終わりにしよう」と言いたくなるのもうなずけるような‥。

この監督が焦点を当てる「人生」って、『脳内ニューヨーク』の主題歌 little personに全て詰まっていて、すごーく理解も共感もできるのだけれど、人生を見つめすぎて、なおかつ煮詰めすぎてもいるので、わたしのように拗らせた人間が真っ当に受け取ると苦しくなってしまうんですよね…見終えてからしばらくは遠い目をしていました‥。

サスペリア』@prime video

ルカ・グァダニーノ監督のリメイク版。オリジナル版は見ていません。ダンスが儀式の要(力の媒介)になっているのが面白かった。ゾンビものを見てても思うのですが、感染する(力、呪いを媒介する)ということは、生態や容貌もそうなんですけど、日常から一脱した行動や振る舞いを「振り写し」ていくことなんですよね。そしてそれをフォーマット化して別世界から力を召喚するのが儀式。ゾンビものや貞子にダンサーや振付師が関わっているのも面白く、ホラーとダンスの関係性ってもっと語られてもいいとずっと思ってたんですが、まさに、な映画でした。

でも、わたしの中では『ミッドサマー』『ヘレディタリー』枠だった…(要は苦手)。痛さやグロさだけではなくて、実母との縁切りとマザーを筆頭にする女たちの疑似家族的コミュニティという辺りもとても似てました。死を迎えようとしている実母の息遣いがアメリカからドイツに渡ってきたヒロインにオーバーラップして、それ以降もダンサー達の高まりと共鳴の度に意識的に息遣いが挿入されているのも『ミッドサマー』を思い出した。

当時の時代背景と権力構造の話が面白い。

performingarts.jp

わたしはむしろこの高山さんのインタビューでいうナチス(カウンセラーのおじいちゃんはユダヤ人の生き残りで、収容所で妻を亡くしている)あるいはドイツ赤軍的なアウラ的空間によって醸成されるコミュニティ幻想の重ね合わせとその暴走からの脱却の話なのではと思っている。

ダンス講師のブランはノイエタンツの創始者マリー・ヴィグマンをモデルにしているらしく、かつてナチスから模範的芸術ではないという烙印をおされている。かたや、精神分析医のおじいちゃんクレンペラー(真相に近づきつつも結局なにもできない)もまたナチスドイツに迫害され妻と生き別れになるも命からがら生き延びたユダヤ人で。このおじいちゃんの声音が妙に高くずっと違和感を感じていたんですが、なんとブラン役のティルダ・スウィントンが特殊メイクで演じているらしいですね!となると、かたやブランはダンスカンパニーを組織することでマジョリティと対峙しながらそれなりの社会的信用を築き、クレンペラーは誰とも与せず孤独に生きながらえてきたけど、かつてマジョリティからつまはじきにあったという根っこが同じ、裏表の関係ということになる。

一方で、もう一人のマイノリティである外国人スージーは、マザーの生贄として捧げられたにもかかわらず、搾取断固の拒否の姿勢で本物の悪魔を召喚して、逆にマルコスダンスカンパニーの悪しき権力構造を解体してみせ、ブランも殺害する。

かたや、クレンペラーに対して、スージーは生き別れになった妻のその後を伝え、長年抱え続けてきた妻に対する罪悪感を突きつけた後、彼がひとりで背負いつづけてきた罪悪感も辛さも記憶ごと奪う。こうなってくると、もはや『FLYING SAPA』なのでは…。共同体と眠りと忘却の話。記憶を奪い、辛い過去から目を逸させるのは愛なのか呪いなのか。彼女が目指す新世界はどんなものなんだろう。

『1922』@Netflix

スティーブン・キング原作の王道ホラー。妻殺しをきっかけに没落していく一家の話。鼠が罪を苛むように増殖して人生を食い破っていくのも含め『四谷怪談』に似てなくもない(あちらの方が格段に面白いけど)。

籠の中の乙女』@prime video

籠の中の乙女」という名の通り、外界からシャットアウトされた純粋培養の話で、今ぱっと思いつくだけでも『エコール』『エヴォリューション』『わたしを離さないで』『ヴィレッジ』とか同じ系統の映画がたくさんあるのですが、『聖なる鹿殺し』と同じ監督ということで、一筋縄では行かず。その"少し不思議な"仕掛けよって、コミュティの基礎になる家族の支配関係をあぶり出していくというのが主題。かなり気持ち悪い。

乙女と言いながら実は息子もいて、両親との5人家族。家を出られるのは働きに出ている父親1人だけで、子供たちは外界がいかに恐ろしいかを教え込まれ、高い塀で囲まれた敷地内から一歩も出ずに毎日を過ごしている。物や情報も両親が選別して与えているので、当然ながら知識量も極めて限定されているし、なおかつ、敷地内に存在しない情報や概念ーたとえば海だと「ソファー」のことだと意味をすり替えて教えられていて、外への好奇心を徹底的に削いでいる。おかげで、子供達は見た目はもう完全にいい大人なのにやることなすことが稚拙。エンタメもほぼなきに等しく、熱湯や麻酔薬でサディスティックな我慢比べやゲームをする以外は、自分たちのホームビデオを台詞を丸覚えするくらい繰り返し観たりするしかない。

象徴的なのは、唯一の外部エンタメである異国語のレコードを、お祖父さんの歌として父親が勝手に翻訳して朗読し始めるシーン。このレコードはシナトラが歌う「fly me to the moon」で、タイトルからして何とも皮肉。これって「月に連れていって。つまり、手を握って。」みたいな歌詞が続く、超訳的な愛の歌なんですよね。それをさらに全く意味の違う訳を施して伝えるというブラックさときたら。
そんな彼等にも唯一外界との交流があって、それが息子のセックス相手として雇われた、父親と同じ職場で働く女性警備員。もう設定がキモいですよね。子の性的欲求に親が人を当てがい、なおかつそれに対して本人も全く羞恥心を抱いていないという。そう、この家族のタブーとは「外界と接触しないこと」「両親に逆らうこと」なので、性や暴力も含めそれ以外はタブー視されないんですよね。外界からやってきた警備員女性は、この変な家族を見て、自分の持つカチューシャと引き換えに無知な娘たちを性的支配下に置く。

この時の「舐める」という行為が夫婦間や父娘間でも何度も出てきて、本人たちはものの対価であったり謝罪としてやってるつもりなんですけど、明らかに支配ー被支配関係(しかも性的な意味合いも含む)を描いててめちゃくちゃ気持ち悪い。娘たちは父親や兄とも性的関係を持たされるけど、さっき書いた通り、それをタブーだとは感じていないので従順なまま。でも、娘がこの唯一の外の世界を知る女性から映画のレンタルビデオを手に入れると一転、外の世界への欲求が弾けてしまう…。このあたりは奇子を思い出したりもした。

父親はペットとして飼う予定の犬を訓練学校に預けていて、そのトレーナーが「犬はしつけられることに喜びを感じる」だの人間本意の考えをもっともらしく説いて父親もそれに同調する(一方で、名前を呼ばれた犬はガン無視)のだけれど、まさにこれが家庭内で行われている両親本意による子供たちの人権を無視した「調教」なんですよね。しかも、犬は名前があるだけまだマシで、人間の子供たちには名前すら与えられていない。それでも疑問を持たず、この家庭内のルールに則って暮らしていることの気味悪さ。いわゆる「毒親」の話ではあるけれど、これを一つの町や国にまで広げてみると、外の世界に目を向けず内の正しさに固執することの愚かしさを説いた寓話として考えられるかもしれません‥でも、気持ち悪いからわたしは嫌い。

『殺人ホテル』@Netflix

ヒロインがかつてマクベス夫人を演じていた元女優であること、ホテルで行われる催しがイマーシブシアターであること、仮面を着けることが参加条件の一つであること、劇中劇のラストシーンとして描かれる晩餐シーン…。至る所に『スリープノーモア』パロディが散りばめられていて、愛はひしひしと伝わる。

にもかかわらず、一番の頑張りどころなはずの劇中劇がとんでもなくつまらない…!わたし含め、これを観た『スリープノーモア』ファン達はかなり色めき立っていますが、それはあくまで設定部分の話なんですよね。パフォーマンスの内容やレベルがもはやマイナスプロモーションレベルなので、逆にあの愛情なんやったんや…と複雑な心境。

中盤からは『スウィーニー・トッド』や『注文の多い料理店』的な、タイトル通りのカラクリがメインに。劇中劇部分をミステリアスにそして没入感高く作り上げてそれを丁寧に見せるほど、どこまでが演技で現実なのかの境目がわからなくなってカラクリ部分の面白さも加速度的に増すと思うのですが、とにかく描かれ方が雑で効果的でないんですよね。加えて、ヒロインの元女優設定が大どんでん返しに使われるかと思いきやそうでもなく…。せっかくのフリを生かしきれないぬるい映画でした。

『ロングデイズジャーニー』@Netflix

後半がワンカット60分、しかも後半だけ3Dという何やそれ案件で、公開当時から気になっていたもの。

父親の死を機に故郷へ帰った主人公。そこで、亡くなった幼馴染や彼の心をずっと捉えている謎の女にまつわる記憶を辿る。若かりし日の記憶と交錯するように、謎の女の手がかりを求め方々を彷徨い、いよいよ女の居所が明らかになりそうなところまでくると、男は映画館に入って3Dメガネを掛けて映画を見始めてしまう。そこから入れ子式で映画の後半部分がスタート。…のはずが、すぐにカットが切り替わり、何事もなかったかのように再登場した男曰く、映画の途中で寝入ってしまって、気づくと誰もおらず迷子になってしまったらしい。が、どうやら様子がおかしい。

道中会う人たちもモノも、前半パートに出てきた数々の記憶のカケラが溶かし込まれたように反復されている。例えば、洞窟で出会う少年は明らかに謎の女が堕した子供だし、謎の女と瓜二つの女、家出した母と瓜二つの女達は、前半で語られたモチーフを纏いながら登場する。現在と過去の記憶を覚束なく行き来していた前半とは打って変わって、途切れのない1カットで男の確かな足取りを目撃しているはずなのに、実はこちらの方が「夢」。しかも、花火が儚く燃え尽きる寸前で、私たちは男より一足早く夢から目覚めてしまう。

度々書いてる通り、「眠り続ける男」のモチーフは大好きなので、自分の嗜好にはまった映画だったのですが、ビジュアルを見る限りもっと中華耽美が拝めるかと思っていたので、意外とあっさりやな…というのが一番の感想でした。