だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

1月のたしなみ。

色々抜けてそうだけど、断片メモを繋ぎ合わせてみる。

 

 

宝塚雪組『fff』『シルクロード』@宝塚大劇場

『fff』は、上田久美子先生の『神々の土地』ぶりとなる大劇場芝居作品ということで大いに期待していた。が、幕開けのメルヘンっぷりには面食らってしまった。モーツァルトら名だたる音楽家たちが、天界へ召されることを拒否されて、死後の世界で彷徨い続けているというシーン。天使の言い分としては、「本来、音楽は神に捧げられるべきものなのに、いつの間にか召抱えられた宮廷や貴族のために書かれ、演奏されるようになってしまった…けしからん!」ということらしい。『モーツァルト!』でヴォルフガングがもがき続けたテーマの一つが、まさにこの音楽のあり方でしたね。

そして、この「音楽家は自由に音楽を生み、奏でられるのか、であれば、何のために音楽は存在するのか」というバトンを死後の音楽家たちから託されたのが、作品の主役ベートーベン。‥という大枠は理解できるけど、あのメルヘンは観たいものとは違ったな…。

そこからは、ベートーベンの人生を追っていくわけだけど、(正直、ここから何箇所かうとうとしてしまって記憶が怪しい)恋愛関係にしろナポレオンへの敬愛にしろ、ベートーベンの人生は、他者への独りよがりな期待、思い込みとそのしっぺ返しのような裏切り、期待外れの繰り返しで、そのディスコミニュケーションぶりと比例するように、音の歪み、難聴が進んでいく(この歪みは、上田大樹さんの映像で表現される)。

そこで現れるのが謎の女。てっきり有名な”謎の手紙”絡みかなと思いきや、孤独な彼のイマジナリーフレンドでした。ベートーベンは人生を”苦しみ”であると表現するけれど、まさにその人生の苦しみや哀しみを象徴する女。度重なる失望の先に、彼女を”運命”として苦しみごと抱きとめ愛し生まれたのが、人生を遍く寿ぐ「歓喜の歌」で、この音楽をもって、冒頭の命題が解かれる…という流れ。

楽家の人生を描いたミュージカルといえば、やはり『モーツァルト!』。『M!』のヴォルフガングのキャラとは全く違うとはいえ、冒頭にモーツァルト役を出してこられると、『M!』(の「影を逃れて」)の延長線上にある物語、アンサーソング的な意味合いも感じましたね。

ただ、これお芝居として面白いの‥?(おそるおそる)生オケを使えないことを逆手に取ったオケピの活用法とか戦争と音楽、武器と楽器の重ね合わせとか目を見張るシーンもあったけど、かなりしっちゃかめっちゃかじゃなかったですか…?わたしの理解力の問題…?(寝落ちしたからでは)

シルクロード
こういうエスニックなショー、年に1本は観たいなと思った。しかも、近年では珍しい通し役の付いたストーリー仕立て(思いっきり『BLUE MOON BLUE』のパクリ)になっているのも良い。

ただ、残念ながら、『クルンテープ』がそうだったように、曲調や衣裳が物珍しいだけで、根本的にはいつもと変わらないので、オープニングのワクワク感を超えてこないんですよね。。。あと、生田先生の歌詞には、もっと中ニ病感がほしいです!さよなら公演としても物足りなく、だいもんファン的には大丈夫だったのか、ちょっと心配(むしろ真彩さんの方が目立っていた)。

ポーの一族』@梅田芸術劇場メインホール

滑り込みで観れた。いくらみりおの当たり役とはいえ、これを男女まじえて再演したところで意味あるの…?と訝しんでいたけど、これはこれで面白かった!

まず、装置(松井るみさん)のよさ。高さ・奥行きを目一杯使った大振りの階段状装置には幕開きから圧倒された。ポーツネル一族が居並ぶと、まさに美しい絵のよう。幕代わりに使っている半透明パネルの素材感や重層感も世界観に合っていて、そこに映像が加わると、幕前芝居もちゃちに見えない。ホテルを中心に展開する2幕になると、盆を使って、ホテルの各所を同時並行的に見せていく。この辺りは2・3階から見ても見応えがあったかもしれません。

衣装、照明、映像も装置とうまくマッチして、宝塚的な世界の作り方とは全く違った、豪奢な2.5次元を堪能できました。

エドガーのみりおは、女優としてのキャリア的にどうなのかという視点はさておき、トップスターとしての圧倒的な主役感と、男性キャストの中で一人だけ男役を混じった”異形感”とが入り混じって不思議な耽美性があった。

るろ剣」では、マチズモから解脱したようなキャラクター剣心を、ちぎがあえて男役として演じることに意味があったと思うけど、今回もまた、宝塚の男役を外の世界で活かせる成功例を見た気がします。なので、アランも宝塚OGが良かったのに、という意見はわからなくはないけど、やはりエドガーだけが女性という方が理にかなってると思う。

ばーちーアランはなんか駄々っ子みたいで彼の個性的なあざと可愛さの取扱の難しさ(それは他の映画やドラマでも)を感じた。動きも独特で、ラストシーン、スローモーションで歩いて行く姿が何か面白かったな‥。
動きといえば、橋之助くんも負けておらず、かなり歌舞いてましたね…。手の払いと止めが立ち回りっぽくて。洋服での立ち振る舞いも一生懸命頑張ってるんですけど、いけてない男役風情というか。

一族側に移ると、キングポーと老ハンナの贅沢なキャスティングっぷりに心躍る。ねねシーラは仙名さんとはまた違った独特の妖気があり、ドレス姿も艶やか。やっぱりねねさんはこういうの合いますね‥。ねねさんのオーラが抜群なだけに、ポーツネル男爵にも姿、声ともにもっと色気がほしい。メリーベルの綺咲さんは本来もっと大人な役を得意とするのだろうけど、あのビジュアルなので当然可愛かった。

ライジン若冲』@NHK

ナウシカ前編→ライジン若冲ナウシカ後編→BS中村屋特番と2日間にわたって振り幅ありまくりの七之助さまがテレビで拝める夢のような年明けでしたね…。

正直、このドラマも『牡丹灯籠』もドラマとしては自分の好みには入らないのですが、ただただ七之助様の色気を堪能できるだけでも有難いです…。寝転がって絵を描いてるだけで色っぽいという…なんなんでしょう、あの生き物は。

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』@NHK

原作漫画7巻分を昼夜通しで新作歌舞伎化という、度肝を抜かれた一大企画。上演時にはチケットが取れず、ディレイビューイングも仕事で観に行けなかったので、今回が初見でした。年末年始、唯一の楽しみとして12月下旬はずっとそわそわしていた。

『ワンピース』や『NARUTO』と同じ、いわゆる2.5次元系の新作歌舞伎ではあるものの、所作事、毛振りなど歌舞伎らしい手法を取り入れて、ずっと歌舞伎らしい仕上がりになっていた。これは菊之助の「古典歌舞伎継承」という志の賜物で、普段歌舞伎は観ないけどナウシカだから観にきた、という人たちをターゲットに考えると、ナウシカで歌舞伎のいろはを知れる良い仕掛けにはなっているとは思った。とはいえ、それと、新作歌舞伎または演劇として面白いかはまた別の話になってきますよね‥。

特に前編は暗転だらけ、幕前芝居のぶつ切りだらけで流れが悪い。後半になってクシャナを中心にようやく舞台が熱し始めたかと思いきや、ナウシカの踊りに一場費やしてしまい、せっかくのボルテージが水の泡。盛り上がりそうで盛り上がりきらない、やきもきするシーンが続く。
そもそも、ナウシカは周囲の人たちに影響を及ぼしていく伝道師ではあるけど、彼女自身が対峙しているのは、常に人ではなく「世界」(しかもSF的な)であって、本来、舞台、特に役者をいかに際立たせるかを追求している歌舞伎が最も不得手な題材・スケール感なのですよね。

なので、「古典歌舞伎継承」のテーマはいったん置いておくと、この作品を歌舞伎として上演するにあたって、最も腐心しなければいけなかったのは、いかに世界を描くか、だったのでは。それは王蟲巨神兵を再現率の高い道具で表現する、とかそういう単純なことではなくて、腐海に沈む世界や戦で荒廃した都市の空気感をいかに見せるか、ということ。おまけに空まで飛んでしまうのだから、もうちょっと天地、世界の奥行きを感じさせる工夫が欲しかった。

それに、もうひとつ気になったのは、世界観のブレ。登場人物の歌舞伎味の濃淡は役者さんたちが心得てうまく調整していたのですが、装置も衣裳も歌舞伎に寄せているもの、原作を再現したものがまちまちで、統一感がない。ここはより緻密にコンセプトのすり合わせがいったのでは、と感じた。

逆に、音楽は映画音楽そのままやるの、ダサくない…?と心配していたら(桜の森の満開の下のジャンニスキッキが超絶ダサかった)驚くほど良くて、とりわけテーマ曲と鳥の人は涙が出るほど。音楽から立ちあがる世界、スケール感にかなり助けられていました。

役者さんたちは、中車、吉右衛門の声の出演に至るまで錚々たる顔ぶれ。花形勢は大奮闘で、特に巳之助くんの二役演じ分け、右近くんのすっきりした二枚目っぷりは舞台を活気づけていた。普段からキャラ立っている橘太郎さんのミトじい、亀蔵さんのクロトワが漫画と歌舞伎を見事に橋渡ししていたのには、嬉しくて涙が出そうだったし、後編から堂々登場する、歌六さんのヴ王には痺れた…!さすがの品格と王たるものの大きさ。

菊之助ナウシカに関しては、さっきも書いた通り、歌舞伎は人のドロドロを描くのは得意だけど、ナウシカが対峙している世界が大きすぎて描けていないから、彼女の活躍がわかりにくい。その上、一場まるまま踊りに充てたりするので、人物造形の薄いよくわからないキャラになってしまったのが残念。

それでも、古典歌舞伎だけでなくこの世界に対する菊之助の清廉なまなざしみたいなものは、菊之助の、人とも動物とも神とも見える、あの唯一無二の瞳から感じられて、菊之助の「生きねば」には心を動かされたのですが。

かたや歌舞伎お得意のドロドロ担当クシャナは、もうどうしてもナウシカより立ってしまいますよね…。でも、歌舞伎って普段はあんな女形の役はないはずで、七之助女形として絶妙なカッコよさを突いてくるのって本当にすごいと思うんです…。後編の第三皇子が蟲の大群に一瞬にして飲み込まれ、あわや自分も…というシーンの静かな美しさも忘れ難い。
ナウシカ歌舞伎でもっともチャレンジングだったのは『マハーバーラタ戦記』からさらに一歩進んで、主役・準主役ともに女性キャラであり、しかも立役との色恋なく、すっくと世界に立ち向かう女性同士の絆を描いたことなのでは。しかも、クシャナにいたっては、、”(できる)女”であるが故にかけられた呪いを打破しようと闘う。それを歌舞伎の女形が演じたのは、エポックメイキングなことだったのではないかと思いました。

Q『バッコスの信女』@auスマートパス配信

去年の豊岡演劇祭で上演された3作品がauスマートパスで観られるということで、話題になっていた『バッコスの信女-ホルスタインの雌-』を観てみた。仕事が重なってなかったら生で観に行ってた作品だったけど、配信でよかった…と心底思った。なんせ辛い。
とある主婦の性と生殖にまつわる、ざっくばらんなモノローグから始まる。かつて酪農農家で働き牛の人工授精を手掛けていたこと、それを真似て自分も人工授精にトライしようとしたこと、ハプニングバーでの女性との初めてのSEX‥などなど。

ハプニングバーでのエピソードが好きだった。女性の柔らかな肉体に触れて、なぜ今まで自分は心地よくもない男の性器を握らされていたんだろう?自分の性の欲望は果たして本当に自分から湧き上がっていたのか、実は男性中心的な社会(もしくは異性愛中心の、性と生殖が重ね合わされた)によって刷り込まれていただけなのでは?と数々浮かんでくる疑問。だからといって、単純な男性/女性の支配関係の問題に落とし込まれることはない。ハプニングバー再訪のシーンでは、別の女性を相手にした時、ふたりで行為に及んでいるのに、それを窃視して欲望する男性たちの視線を内面化してAV男優・女優のようにパフォーマンスして自分の欲望が宙吊りされていることに気づいてしまう。他にも、性の教科書としてエロ本を買い与えてみたり、男が作り出す性ファンタジーに嫌悪を抱きつつ、いつの間にかそれに加担して支配関係を再生産してしまっていることが明示されている。

…ここまでならわたしも全然大丈夫で面白いなーと思って観れるんですけど、人間と動物の性と生殖が重ね合わされるのは結構辛いな。つまり、普段”愛”や”家族”みたいなある種のファンタジーワードで丹念に包み込まれた性と生殖の話が、剥き出しで語られるんですよ。。。食需要に応じて殖やされていく牛と、ペットとして去勢された愛玩犬。どちらも人間が思いのままに生殖をコントロールしている。
かつて女性が人工授精によって生み出した、両性具有かつ人間と牛の半獣が登場してからは、もう地獄絵図すぎて。人間と動物、男性と女性の二項対立を混沌と孕んだ生き物で、例えば、人間でいようと焼肉を食べるけど、一方では無意識に畳を食んでしまうというジレンマ。矛盾を抱えた半獣は、”愛”こそがそれを解決してくれるのだと、女性に母の役割を求めるけど、母にとっての生殖は牛の人工授精をトレースしたものでしかないので、家族も親子も愛もないんですよね。縋りたくなるファンタジーは徹底的に否定され、あるのは剥き出しの生殖でしかない。観て後悔はしてないけど、つらい…。

東海道中膝栗毛歌舞伎座捕物帖』@prime video

新作図夢歌舞伎『弥次喜多』配信に合わせてリリースされた過去作の一つ(シネマ歌舞伎衛星劇場でも放映済み)。シネマ歌舞伎で観た一作目のテイストが好きになれず二の足を踏んでいたのを、ようやく。
今回の舞台は歌舞伎座のみ。『義経千本桜』の四の切の稽古・本番中に起きた殺人事件とその謎解きを軸にしながら、やじきたらしく賑やかに展開する。とはいえ「四の切」を劇中劇にすることで脱線しすぎず、推理の過程でケレンの種明かしがあったり、(猿之助自身が狐忠信役者でもあるので)最後の宙乗りに至るまで、この劇中劇を活かしたメタ的パロディがふんだんに盛り込まれ、一粒で二度美味しい作りになっていた。『HEADS UP』とかバックステージコメディが好きなので、見事にツボをつかれた。
さらに、物語の大詰、殺人事件の容疑者二人のうちどちらを取り調べるかは観客の拍手に委ねられ、その選択によって結末が変わるという仕掛けまで。途中、色々伏線らしきものがありながら、推理シーンで全く回収されないのは、ご愛敬?もしかすると、映像で選ばれなかった方の選択肢だとクリアになるかもしれません。
2018年の納涼歌舞伎第2部ということで、第3部には『野田版桜の森の満開の下』が控えている(準備のため中村屋は早々に引っ込む)中での演目なんですよね。花形中心の8月とはいえこの振り幅の広さ、すごいなー…と感心してしまった。あと、児太郎くんがすっかりお父様同様、癖のあるキャラになっていたのには笑い泣きしたし、虎之助くんの明朗さ、千之助がんばれー、寿猿さん、竹三郎さんイジリへのハラハラ具合なども楽しかった。第3.4弾は映像化されていないで合ってる?内容が気になっている。

図夢歌舞伎『弥次喜多』@prime video

まさかイキウメ×歌舞伎が見られる日が来ようとは。イキウメ 前川さんの『狭き門より入れ』をやじきたに組み込んだもの。これは歌舞伎かと言われると「歌舞伎役者が演じればなんでも歌舞伎になる」という以上には歌舞伎らしさはないのですが、それでも、ナウシカで「世界」を描くことが苦手だと再認識した歌舞伎で、世界を描くイキウメの芝居がちゃんとできるんだ、という学びがあった。

わたしは、七之助丈きっかけに『真夜中の弥次さん喜多さん』の映画版、漫画版、舞台版を観てきて、やじきたフォーマットに何でも落とし込めることを知った。二人の目的地はお伊勢さんなわけだけど、それは『ゴドーを待ちながら』のゴドーのようなものでそこにたどり着くか着かないかはお話上どうでもいいんですよね。その道中こそが大事で、なおかつ二人の旅路は生も死も夢も現もあらゆる境界を超え、何でもあり。

さすがに『狭き門より入れ』をやじきたのキャラクターに全部当てはめるには無理を感じる部分もあったけど、弥次さんが”あちら側”の世界の食料を食べて、”こちら側”の世界にいる喜多さんから弥次さんだと認識されなくなってしまうシーンは、弥次喜多とイキウメの世界が見事にクロスしたとてつもなく美しいシーンで、このシーンだけでもコラボの価値があると思えた。みんなに観て欲しいです、おにぎりシーン…。

あと、これを観ちゃうと、歌舞伎座でのド派手な感じだけじゃなく、もっとコンパクトなあの二人のやじきたが観たくなってしまいますね…。やじきたの無限の可能性を感じる。

『Inspire陰陽師』@配信

「晴明、祓う」のキャッチ通り、お祓いスペクタクルショー。それ以上でも以下でもなく、コロナ禍に急ごしらえに作ったんだろうなぁ…という薄い舞台。トンチキなんですけど、後世にまで語り告げるほどの強烈なトンチキではない(つまりシンプルに駄作)…。

グッドネイバー』@prime video

「ヤバい隣人もの」ジャンルを活かした映画。アイディアは面白いのに、構成が微妙で早い段階でオチが見えてしまう。

月世界旅行&メリエスの素晴らしき映画魔術』@prime video

カラー版の『月世界旅行』全編+初期映画史をさらいながら、メリエスの生涯を辿り、さらには『月世界旅行』のフィルム復元に至る経緯を追っていくという盛りだくさんな内容。

アラサーにとって『月世界旅行』といえば、大好きだったポンキッキーズの「さあ冒険だ」なしには語れないと思うのですが、それがメリエスの『月世界旅行』だと知ったのは意外と最近。あのワクワクと不思議が入り混じった映像はずっと心に残っていた。(だよねーとかピーターラビットとかトイレの花子さんとか家に帰ろうも残り続けている)

初めて全編観て目を見張ったのは、その先進的な特殊効果。

月世界旅行』以外のメリエス作品も含め、徹底的に作り込まれた世界観と奇術師ならではのスペクタクルな仕掛けが盛りこまれて、映画というより動く絵本のよう。メリエスの想像力が、できたてのメディアや技術で次々に具現化されて、次は何しよう!?みたいなワクワク感が伝わってくる。まさに「さあ冒険だ」のような。
メリエスの生涯を振り返ると、この成功は一過性のもので、すぐに過去の人になってしまう。でも、『月世界旅行』のフィルム復元とともに彼の業績もまた見直され、再び日の目を見ることになったのはよかった。今見ても全く古びでいないどころか、イマジネーションの宝庫です。

『湿地』@prime video

珍しいアイスランドのサスペンス映画。

終始青被りした映像で、登場人物たちにも陰鬱な空気感が漂っている。雰囲気はとても好きだったのですが、事件を紐解くキーとなる「遺伝」と犯罪的悪の紐付け方がこれでいいのか(ミステリーとしてではなく倫理的に)という思いがあり、これを悲劇や悲しい運命で片付ける感想を見かけては、違和感を感じていた。
が、後々情報収集をしてわかったのは、アイスランドが、9世紀に入植してから人種の入れ替わりも少なく遺伝子情報が安定しているため、遺伝子研究が発達して、国と企業が手を組んで国民のDNA解析・データベース化をしている遺伝子研究先進国だということ(ちらっと映画にも出てきたけど、後の伏線程度にしか捉えてなかった)。

となるとまた見方は変わってきて、国民の遺伝情報(つまり国が大きな家系図)が網羅されているとなると、望まない妊娠は遺伝子面からみても”望ましくない”ということになってしまう(アイスランドでは出生前診断ダウン症が判明した場合、100%中絶するという記事も)。つまり、元々人口が少なく、閉じたコミュニティである上に、遺伝子レベルで病の原因まで突き止められ、優生学的観点から、遺伝子に変異があれば国家的家系図からつまはじきにされてしまうわけで。家族(血)の呪いの話はたくさんあるけど、国まるごとが血で結びついていて、そのしがらみから抜け出せない、あるいはそこから排除されるって、完全なるディストピアでは‥。

これを踏まえると、「レイプされたことはあるか?」の問いかけと答えも主人公の娘が望まない妊娠をしていることもまるで印象が変わってくるし、犯人が最後に選んだ手段も、この「湿地」をおおう閉塞感や陰鬱さの原因も腑に落ちるし、ジメジメと悪臭を漂わせながら、この地を濡らすのは、国民を繋ぐ血なのだということもわかる。背筋が凍りました‥。

『ウィッチ』@Netflix

www.interfilm.co.jp

ポン・ジュノ監督のおすすめにあがっていたロバート・エガード監督作品。

セイラム魔女裁判を元にしたストーリーらしく、ポップなビジュアルに反してかなり気持ちの悪い家族映画だった。

キリスト教の異端としてコミュニティを追われ辺鄙な場所で貧しく暮らさざるをえなくなった大家族。生活への不安も圧し掛かる中、ある日、末っ子が行方不明になったことを機に疑心暗鬼が大爆発。最初こそ森の魔女のせいにしていたものの、やがて家族の中に"魔女"を見出してしまう。『聖なる鹿殺し』『籠の中の乙女』的な家族間の支配関係が気持ち悪かった。

『〈敵〉と呼ばれても』

ジョージ・タケイさんによる自伝的コミックス。

第二次世界大戦中、日系アメリカ人たちが強制収容されていた日々を綴っている。世界一の民主主義国家であるはずのアメリカから国民としての権利を剥奪され、アメリカ・日本の両国間でアイデンティティを宙ぶらりんにされたまま、不自由な生活を強いられてしまう不条理さ。幼少時の体験談、大人になって強制収容の意味を知った上での両親とのやり取りなど、記憶や想いの断片が重層的に積み重ねられている。

いくつかバンドデシネを読んできて、この「断片」「層」の大切さに気付かされた。それは、滔々と直線的に描けないもので、記憶の糸を辿り、今の自分から見た知識を補足し記憶とすり合わせ、時には逡巡し、言い淀み…。その行きつ戻りつする過程ごと記録できるメディアとしての漫画(バンドデシネ)の可能性に、毎回感動してしまう。

日系アメリカ人の強制収容に関しては、こんな取り組みもあったよう。アジア人へのヘイトクライムが多発する今、もう一度見直したいトピックスでもあります。

note.com

『心中月夜星野屋』@歌舞伎オンデマンド

七之助熱が高まり観てみた。落語の「星野屋」を基に作られたライトな新作歌舞伎。七之助演じるしたたかな芸者のおたかと、心中相手の中車、おたかの母親の猿弥のキャラやアドリブが見どころになっていて、見取りのうちの一つなら面白いけど、単品で見る分には物足りなかった。でも、七之助丈が可愛かったから良いです!

シソンヌにハマる

同僚が大好きというシソンヌがめっちゃ面白かった。特にこれが好き。

 SCRAP『封鎖された魔王城からの脱出』

realdgame.jp

『封鎖された人狼村からの脱出』が面白かったので、買ってみた。うーん…こういうのはやはりギミック命なので、人狼村で感動した分、二番煎じっぽく見えてしまったかな。でも、このタイプのリアル脱出ゲームは一人で手軽にできて頭がすっきりするので好きです。