だらだらノマド。

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『奇跡の人』と『パンドラの鐘』感想。

『奇跡の人』@シアター・ドラマシティ

1959年初演のウィリアム・ギブソンの戯曲。日本ではホリプロのレパートリー作品になっていて、ホリプロの役者中心に受け継がれていっている。今回のアニー・サリヴァン高畑充希さんは過去にヘレン・ケラー役を2回、アニー役を1回。ヘレン役の平祐奈さんは今回が初舞台。演出の森新太郎さんは今回で3度目。

ヘレン・ケラーサリヴァン先生って、小学校入学後、エジソンアンネ・フランク同様、図書室で出会う最初の偉人というイメージ。でも、そこから意外と情報がアップデートされてなくて、"water"をめぐるエピソードや晩年に来日した、ぐらいしか思い浮かばない。

この戯曲は、まさにその誰もが知る"water"のくだりをクライマックスにもってきて、ヘレンが言葉を習得する過程を描いている。実は今回が初見で、チラシのイメージから静かな戯曲だと勝手に思い込んでいたので、家具は転がり、食べ物は飛び散り、体は投げ飛ばされ、果ては頭から水を被る、アニーとヘレンの格闘技試合のようなぶつかり合いには、想像とのあまりのギャップに呆然としてしまった。

両親に愛情と何より憐れみをもって育てられ、意に沿わないことがあれば、まるで獣のように暴れまくるヘレン。アニーは、彼女に対して、あるべき振る舞いと指文字を根気よく教え続ける。ヘレンにとっては、いきなりたくさんのルールが設けられた上に、色んなものを触らされて立て続けに指文字を教えられたところで訳がわからないので、体いっぱいに拒絶する。それに、アニーも負けじと対抗。

言葉という概念がそもそも存在しない相手に、指文字と触覚によって言葉の種を蒔くという想像を絶するアクロバティックさ。言葉がテーマだけど、身体性の演劇なんですよね。

秀逸なのは、やはりクライマックス。度重なる大バトルの末に、井戸の水(本水使用)と"water"の指文字が紐付き、ヘレンの中で言葉が初めて腹落ちした時。平さん@ヘレンの体全体に走った稲妻のような衝撃が、高畑さん@アニーに伝わったかと思うと、客席にまで瞬く間に共鳴していく瞬間。いい話やなぁ〜とかすごいなぁ〜とか、一歩引いた第三者的な感想ではなくて、今まさにここで目の前の人が言葉という概念を得て、世界が変わったという衝撃を共有する「体験」なんですよね(もしかしたら子育てとかに近いかもしれない)。これぞ生のパフォーマンスならではのひと時で、観劇してよかったと久々に心から思えた。

あと、面白いなぁと思ったのが、アニーの人物像。まだ20歳で、はつらつとした彼女もまた、幼少期に劣悪な環境の救貧院で弟と死別、自らも視力を失いかけ廃人のように生きていたという壮絶な過去を持っている。学びがいかに人を救うか身をもって体験した一方で、弟を救えなかった自責の念に度々襲われ、愛情には蓋をしていた彼女が再び愛をそそぐ相手を見つける話でもあった。

もはや貫禄すら感じさせる高畑さんは、独特の甘く朗らかな声がテレビより透き通って響く。平さんは初舞台にも関わらず全く物怖じせず果敢に挑んでいて、高畑さんとの相性もとてもよかった。多少粗削りでも、しっかり動ける若いキャスト同士でぶつかり合うのが正しい戯曲な気がした。池田成志さんの独特のクセはこの芝居にはあってなかったように思う。

そういえば、「エレファントマン」も少し思い出した。あれは、宗主国/植民地という帝国主義思想と、健常者/障害者が二重写しになっていて、プリミティブな人間を教育して健常化させる(あくまで前者に沿った教育内容で、何の権利を持たせ逆に持たせないかも前者が決める)という親切を装ったグロテスクな支配関係だった。

この作品も現代の福祉のあり方とは相反する部分もあるのかもしれないけど、少なくとも↑のような一方的な関係性でも感動ポルノ的な感じでもなく、もっとフレキシブルな、それこそ取っ組み合いながら互いの環世界をぶつけ、融合し合う関係性(シスターフッド的でもある)になっていたのも興味深かった。

 

パンドラの鐘』@森ノ宮ピロティホール

「窮鼠」きっかけで成田凌視聴祭をしていた時にタイミングよく上演されていたので観に行った。かつて蜷川さんのために野田秀樹さんが書き下ろした戯曲で、昨年には熊林さん演出でも上演されている。今回は、杉原さん演出。

床は張り出しの檜舞台、舞台奥の壁が露出した状態でスタート。物語が始まると、横縞の紅白幕が三方を囲む。この作品自体が初見なので、他演出と比較することはできないけど、木ノ下歌舞伎も手掛け伝統芸能に造詣の深い杉原さんらしく、かなり和テイストの強い装置、演出になっていたのではないかと思う。古代でオーパーツ的に発見され、後世の考古学者たちが掘り出す「パンドラの鐘」は、平和の鐘の音であり、原爆の脅威であり、道成寺の鐘のイメージが重なり合ったものだけど、今回見たバージョンでは、道成寺の鐘感がもっとも強かった。鐘の形状も、ヒメ女の鐘の上での決まりなんか完全にそうだし。

たとえば、横縞紅白幕は、ピンカートン未亡人が着る青いドレスと組み合わせると、一気にアメリカの比喩になったり、面白い仕掛けもあるのだけど、野田さんの戯曲の面白さは、巧みな言葉遊びでイメージが知らないうちにコロコロと変容していくことだと思うので、あくまでその一つでしかないはずの道成寺のイメージを膨らませすぎるのは(それこそが杉原さんの強みや個性なんだろうけど)、初見のわたしにはあまりピンとこなかった。秘められた古代の歴史の発掘と歴史修正、戦争の責任の所在は、他の野田作品ともリンクし合いながら、先の大戦の回顧ではなくむしろ今に響くテーマなだけに、他に膨らませようがあったのでは、とも思ったり。

と言いつつ、他を見てないのでなんとも。。どうやらWOWOWで初演の放送があるみたいなので、見比べてみたい。ちなみに、熊林版は↓のような感じだったらしい。うわー…全然イメージ違いますね。

期待していた成田さんは朗読劇を除けばこれが初舞台だったらしく、舞台での発声や身体の動きでいっぱいいっぱいで、残念ながら、映像で感じるオーラは鳴りを潜めていた。このキャパで生声となると、慣れてないと確かに大変ですよね。映像でも発散型の役者さんではないので、野田作品との相性はあまり良くないのでは、とも思った。同様に、柄本さんもあまり印象に残らず。なかなか強い個性かつ異種格闘技のようなキャスティングだったけど、久々に観れたもはや人間国宝の白石さん、白石さんと良いコンビ感でキレのあった玉置さん、濃ゆい個性が漏れ出す大鶴さん、軽薄なピンカートン@「蝶々夫人」の前田のあっちゃんがよかった。そして、亀蔵さんはどこでも重宝されますね。