だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

庭劇団ペニノ『ダークマスターVR』@3U

前々から見たかった作品がまさかの西成にやってくる、という情報をTwitterで見かけ、行ってきた。「路地裏の舞台へようこそ」というなかなかディープな演劇祭の一環らしく、新今宮駅近くの「3U」という廃ビルでの上演。

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まずは久々に降り立った新今宮のオーラに圧倒される。大阪関西国際芸術祭で見た、釜ヶ崎芸術大学の展示そのままのような、ド直球の標語、色とりどりに飾り付けられたモニュメント的なものが歩道沿いに並んでいる。

すぐにたどり着いた3Uは見るからに怪しさ満点で、1階からしてアングラの巣窟みたいなことになっていた。エレベーターで3階に行く。廃ビルなので空調はない。この日はたまたま涼しい日だったので良かったけど、それでも空気の澱みを感じた。

ぶち抜きの広い空間に本宮氷さんの作品が展示がされていて、「ダークマスター」は奥まった狭い空間を簡易的に囲った場所が会場になっていた。入ると、一蘭方式のカウンターが設営されていて、5人横並びで座る。私の他には親子が来ていた。座ると順番にVRゴーグルとヘッドホンが付けられ、付けられた順に自動再生が始まる。人手の問題もあるんだろうけど、一人一人説明されながら装着されていくので、自分のVRは始まってるのに、隣ではまだ説明が続いている(そして、その声がガンガン聞こえる)という事態になってしまい、もっといい段取りなかったのかなと思ってしまった。

「ダークマスター」は元々庭劇団ペニノで再々上演されている作品で、このVR版は、コロナ禍を機に、新たに作られたもの。ちなみに、庭劇団ペニノは、「蛸入道 忘却ノ儀」と「笑顔の砦」(配信)を観劇済。

kotobanomado.hatenablog.com

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VR内の”わたし”は、とある洋食屋さんを訪れ、今座っているようなカウンター席で料理を待ち、コロッケ定食を食べる。目の前のキッチンでおじさんが調理し、それを、”わたし”が食べるので、口元まで食べ物が近づいてきて、本当に香りが漂ってきそうな臨場感がある。

一方で、調理するおじさんがあまり清潔感がない上に、執拗にこちらを見てきて、居心地が悪くなってしまう。最近、飲食店に入ること自体が激減してしまったので、あまりなくなったけど、たまにヤバい店に入ってしまった時の居心地の悪さ、まさにそんな感じ。
おじさんと世間話をしていたら、突然の提案で、”わたし”がおじさんの代わりにこの店を継ぐことになる。料理の手順は、耳に埋め込まれた小さなイヤホンを通じておじさんが遠隔レクチャーすることで、問題なくこなせるらしい。
実際、聞こえる手順通りにこなすといい感じに料理が作れ、店は繁盛するようになるんだけど、今度は、お客さんからの気味の悪い執拗な眼差しに苛まれ、おじさんからは料理だけじゃなく生理現象(お手洗い)にまつわることまで指示されるようになる(実際にトイレシーンがある)。

やがて、元オーナーの命によりお酒を飲んでいると、もはや遠隔の声なのか自分の頭の中の声なのか、つまり自分は誰なのか、わからなくなってくる。

挙句にはデリヘルを呼んで、厨房内で“サービス”を受ける。流石に直接的な描写はないのだけど、かなり際どく生々しくて、自分が望んでいない行為を無理強いされる生理的嫌悪感と、機材のスペックの問題かわたしの装着の問題か、VRの映像が微妙に焦点が合っておらずで、おまけにゴーグルが落ちてこないようにかなり強く締めたことによって、頭と目が爆発しそうに痛くなってしまって、後半は吐き気を催してしまった。

でも、ある意味、その反応が正しいのだと思う。

まず、VRの特権って通常の舞台ではあり得ない、自分も世界の中に入って「相手の視線を独占し続けられること」だと思うのだけど、その特権を執拗に、気味の悪いくらいに体感できる。

でも、その強い眼差しとは裏腹に、VR内の"わたし"を自分で見ることはできないという皮肉。強い眼差しとニヤニヤ笑いを受けるほど、自分がいったい誰なのか、どうやってその目に映っているのか、不安が募ってしまう。

VRの醍醐味は物語世界の中に自分の肉体がある“てい“で体験できること。料理を作ったり、食事したりする時に目線を下にやると、現実のわたしがカウンターに置いた手の代わりに、VR内の"わたし"の(と言いつつ見知らぬ)手がかろうじて存在するものの、自分がどういう人物と同一化してるかわからないという不気味さがある。そして、当然ながら、その手はわたしではなく、誰かの意思で動く。

現実のわたしとVR内のよくわからない“わたし”が重なり合って、さらに、いつの間にか姿は消え、声だけしか聞こえなくなってしまった元オーナーのおじさんまでもが重なり合ってくる。

これは誰の目線で(確かに現実のわたしの主体的な首の動きによって見える範囲は変わるけど)、誰の声で(現実の私が付けるヘッドホン、VR内の“わたし“が付けるイヤホン、もしくはVR内の"わたし"?)、誰の欲望なのだろう…。混沌とした状態に陥ってしまう。そして、一度同一化してしまうと、そこから逃れられない。

観劇後、この「ダークマスター」が漫画原作ということを知ってさっそく読んでみた。(シュールなSF短編漫画集。全体的に、男性的だなーという感想。。)

まずこれを舞台化するのも画期的だけど、それ以上にまるでVRのためにあるんじゃないかと思えるような話で、この作品が生まれたのは必然だなと思った。というか、もうこの体験自体が巡り巡って再びこの漫画の題材にできるのでは、と思った。

これはもうほぼ拷問に近い、「時計仕掛けのオレンジ」的な。50分間身動きの取れぬまま、他者の体と欲望が憑依し続け、そしてそれには抗えないというディストピア的体験(食、排泄、性という三本柱、強い…)。

この作品の意義は理解しているつもりだけど、生理的に受け付けなくて、終わる頃にはぐったりヘロヘロ。この世で最も清々しいヴォーカルの一人であろうアン・サリーの歌を爆音で聴き、ナリンのハーブオイルを塗りたくりながら、なんとか帰路に着きました。

自分の体と意思と欲望があるって素晴らしいね!