だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『M.バタフライ』とQ『Madama Butterfly』

感想二つ。

 

『M.バタフライ』@シアター・ドラマシティ

大学時代に授業で取り上げられてからずっと気になっていたD.H.ファンの戯曲。88年初演、日本では89年に劇団四季で一度上演されたきりで、この先、日本語で観ることはないだろうと諦めかけていたので、今年一と言っていいくらい楽しみにしていた。

ちなみに、大学時代に読んだのはこれ。

この戯曲の素晴らしさは、実際にあったスパイ事件を、ベトナム戦争、そして文化大革命前夜の1960年代に移し替え、さらに二人の男の関係性を「蝶々夫人」になぞらえて、西洋→東洋、男性→女性の帝国主義ジェンダーの欲望と幻想の構図をせきららに炙り出しているところ。いやもう、この発想が天才すぎる。

主に牢獄にいるガリマールの回想(時々ソンの回想)によって、劇中劇の構造を取りながら、全3幕の物語が紡がれる。1幕はご丁寧に『蝶々夫人』のあらすじをたどりながら、ガリマールが自らの性遍歴を幻の友人と共に語ってくれる。

のっけからアクセル全開の醜悪なホモソノリに、客席がさーっと引いていくのがよくわかるんだけど、その後、ソンと出会い、自分の思うままに振る舞ってくれるソンに鼻息を荒くする前段としてよく機能していたし、ガリマールのキャラクターの複雑な有害さがよく表現されていた。

ガリマールはいわゆる自国ではモテない男で、「男らしさ」に劣等感を抱いている。そんな彼にとって、中国赴任は西洋男性であるだけで「男らしさ」を手に入れられる格好の機会になったわけで。

この一筋縄ではいかない難しい役柄を膨大な台詞量で牽引していくのはなかなかやれる人いないと思う。内野さんはさすが。(ケンジを演じた後でこの役というのも興味深く思った)

かたや、ソンはガリマールの欲望を逆手にとって、彼が求める幻想の女になり、彼を手中にいれようとする。といっても、ソンはガリマールと出会って早々、彼の歪な東洋観に真っ向から正論を吐いている。でも、ガリマールが対等に聞き入れようとしないから、今度は彼の望む女として現れる。

そもそもガリマールが京劇が何たるかを少しでも学ぶ気があれば、ソンが男だとすぐわかったはずなのに。あくまで西洋が物事の尺度で、京劇=東洋のオペラという決めつけでしか物事を把握しないから、気づかない。同様に、理解ではなく勝手な思い込みだということに気付かず、ベトナム戦争の展望を見誤る。

2幕・3幕の間の幕間、ソンはとうとう化粧と衣裳をはぎ取り、スーツ姿の男になる。ソンが脱ぎ捨てた蝶々夫人の衣をガリマールが纏い、化粧を施して自死する。ピンカートンのように自分のために愛を捧げる女を手に入れたと思ったら、幻想を一途に追い求めそれがないと生きていけなくなったのは自分で、むしろ自分が蝶々夫人だったのだ、と気づいてしまったから。

でも、まだ幕は下りない。ガリマールが牢獄で『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」を聴く冒頭のシーンに戻る。実際には、真実に辿り着いても終止符を打つことさえできずに、まだなお幻想に縋り付いたまま毎日を過ごしているらしい。
かたやソンも、必ずしも、してやったりというわけでなく。文化大革命で京劇も自分のセクシュアリティも否定された後、ガリマールの前で初めて一糸纏わずに体を晒したのに、彼にすら存在を拒絶されてしまう。ソンもまた、自己承認が難しい複雑なアイデンティティを持っていて、ガリマールに依存していた。

ソンを演じる岡本さんは、尻上がりに良くなっていったものの少々荷が重く、若い頃の中村倫也あたりで見たかったなーと思ってしまった。これは年齢差があってもスキル的にはガリマールと渡り合える人にやってほしい。

それにしても、3幕、ソンが正体を表してからのふたりの男の愛憎のぶつかりあい(ぶつかりあっているはずなのにずっとすれ違っている)が良い。そして、個々のぶつかり合いを通じて、西洋と東洋の関係値がまざまざと浮かびあがる面白さときたら。

初演から30年以上経っているものの、やっぱり現代でも色褪せない力を持っているなーと感じた。そして、こうやって舞台版を見てみると、映画版(アマプラで見れる)は良くも悪くもこの戯曲の持つ強いクセを削ぎ落としていて、核の部分だけを上手く、そして耽美的に抽出しているのも良く分かった。

1幕冒頭のガリマールのモノローグの有無で彼の印象が随分変わるし、ソンが男としてガリマールに対峙するシーンは映画は映画で短いながら、ジェレミー・アイアンズジョン・ローンの緊迫感と色気が漂い、とっても良いシーンになっているけど、ソンが脱いだ幻想の衣をガリマールが纏う流れや、高低差のある舞台上でポジションを変えながら丁々発止で駆け引きするシーンを生で見ると、なんとも言えない熱を帯びていて、これは舞台ならではの良さを感じた。

あと、舞台版は、生々しい言葉が飛び交うので、苦手な人は苦手なんだろうなーと思った(痛いとこつかれるからか私の周りの男性受けも悪い)。ガリマールと関係を持つ女子大生のくだりとかもなかなかすごいよね。でも、わたしはかなり好き。

あ、でも、(権利上できないのだろうけど)さすがに3時間半はもうちょっと刈り込めるんじゃないかなとは思ったし、ガリマールが劇中劇から我に返って観客に語りかけるシーンがいくつかあるんだけど、劇場のサイズ感ゆえかあまり効果的に見えなかったのは残念。

あと、この戯曲においての最大の仕掛けは、西洋→東洋、男性→女性観の"ひっくり返し"なので、しっぺ返しをくらうガリマールにフォーカスが当てられていて、ソンはさほど掘り下げらていないけど、ベタな発想で言うなら、ガリマールの回想をサイドA、ソンの回想をサイドBみたいにするのも見てみたい。今的なのは、むしろソンなんですよね。結局、ソンがミステリアスな東洋のヴェールを纏い続けているようで(全裸になってさえ)、彼のことももっと知りたいなと思ってしまった。

ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/ Q『madama butterfly』@ロームシアターノースホール

『M.バタフライ』と『ミス・サイゴン』がセットで観られる貴重な2022年。『Mバタ』上演に浮かれていたら、なんともう一つ『蝶々夫人』の翻案が上演されるというニュースが。しかも『バッコスの神女』で強烈なインパクトを受けた市原さんが手掛けるとなれば、ゴリゴリに抉ってくること間違いなし。直前まで出張が入ってたけど、奇跡的にスケジュールがずれて観に行けることに。

kotobanomado.hatenablog.com

『バッコスの神女』を観てたのでキツさは覚悟していたけど、また別もののキツさが…。確かに『蝶々夫人』を全く反転させた側(日本女性)から描くのは意義深く、人種とルッキズムの問題(白人への執拗な憧れ)が『バッコス〜』同様、性や生殖の問題へと繋がっていくのは刺激的。

白人への憧憬(というか、これも立派な偏見)のゆる語りから、『蝶々夫人』に沿ったGaijinとのなれそめ話、それを演じた役者たちの突然のメタ的ディスカッション(言語、人種、性別がシャッフルしている)、最後に、『バッコス~』を思い出させるような蝶々夫人とハーフの息子の平行線を辿る欲望の話という縦横無尽な構成も実験的ではあったけど、あまりにとっ散らかっている。

なんだろう‥西洋/東洋、男性/女性の偏見は一方向ではなく双方向であり、互いへの偏見が直接的な言葉で延々垂れ流されて、それらが気持ち悪く散らばったまま終わってしまった感じで、パフォーマンスの完成形として昇華できてるようには思えなかった。現代の『M.バタ』が観れるかと思って期待してたんだけど…。

ただ、授業の一環か、女子大学生?がたくさん観に来ていて、えらくウケていた。リアリティを感じたのか、逆に荒唐無稽すぎて面白かったのか…。最後の最後のマリア様ネタまで、わたしはエグすぎて笑えなかったです。

そう、ロームシアターに行くと、『蝶々夫人』のレクチャーボードみたいなものが出ていて。どうやら本家の『蝶々夫人』も来月ロームシアターで上演されるよう。せっかくならこれも観て『蝶々夫人』イヤーを締めくくろうかなと思ってる。