だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

納めない /12月よもやま

1201~2

上海。
 
1203
仕事。S先輩とランチ。「スリープノーモア」談義。
 
1204
1日中「スリープノーモア」について考える。
 
1205
大学生が経営してるというちょっとヤバめのカフェで、後輩二人に「スリープノーモア」をひたすら語るランチ会(相手にとって迷惑でしかない)
 
1206~8
1日中「スリープノーモア」について考える。(仕事そっちのけ)
 
1209
気になっていた「選択制演劇」を観に行った。

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イマーシブ仲間のS先輩、某イマーシブ関係者、わたしの3人で行くはずが、S先輩が急遽観れなくなり、2人で行くことに。オリックス劇場近くのイサオビル内の2〜4階を使った芝居。といっても、「スリープノーモア」のように、役者や観客が館内を自由に動き回るわけではない。3幕制で、1.2幕はキャスト4人が2人一組になって別の2部屋で芝居する。1幕はチケットを購入する時点でどちらの部屋を見るか選択済。芝居中は普通に着席して観劇する。 1.2幕でキャストの組み合わせが変わるので、1幕観劇後、今見た登場人物のうちどちらの続きを見るか選択し、また別の階の部屋に移動する。そして、3幕に初めて4人合流した芝居となるという、まさに「選択制演劇」。1.2幕は初日前夜という設定。明日上演する舞台の脚本が絶賛放送中のドラマの脚本に酷似していて、急遽、新たなホンを用意せねば!という流れ。コメディと謳ってたので、ここで、それぞれの組が新たにホンを見繕ってドタバタ稽古して、3幕目でがっちゃんこしたら奇跡的に噛み合うとか…そんなウェルメイドな展開…あるわけなかったですね。最終的に4人のうち1人が別の3キャラクターを生み出していたという夢オチに近い状態に。序盤から入れ子構造(…の役を演じるという役を演じるという役を演じる…)や記憶喪失で夢か現か、みたいな構造はチラついていて、それが最後にこうくるとは。確かに、ビルをまるごと借り切るのも「選択制」というスタイルも、別部屋の役者さんが部屋にやってきて思わぬ形で芝居が絡み合うのも、隣室同士で電話でやりとりするのも、面白いアイディアだと思う。でも、そういう飛び道具を扱うときこそ、勘三郎の言う「型があるから型破り。型が無ければ、それは形無し」という言葉通り、脚本や演技の基礎力が必要になるはずで。飛び道具に行きつくまでもなく、そもそもお芝居として成形前のむやみに言葉が垂れ流されるだけのカオス状態に、開始10秒で遠い目をしてしまった。今まで色んな芝居を観てきたけど、開始10秒は最速記録かも。今回観たのがたまたまエピソード0で本編ではなかったから、特に完成度が低かったのかもしれない。それでも、キャストのファンなのかリピーターがいっぱいいて、満足そうに笑っていた。演劇としては成り立っていないが、エンタメとしては成立している。そういうもんだよね、と思った。面白かったのは、終演後、ごく自然な流れでキャストの撮影会が始まったこと。職業柄、フォトセッションとなれば反射的に参加してしまう我ら。しかし、そのままカンパのご説明、懇親会へと華麗に流れていって、さすがに懇親会とは…?となり、未知の世界へ誘われそうだったので、失礼させていただきました。帰り道、感想が尽きずに異様に盛り上がった。
 
1210
「スリープノーモア」の余韻に浸りたくて「マクベス」を読み終わる。ずっと前に読んだきりだったので、こういう話だっけ!?と新鮮に読んだ。「スリープノーモア」では言葉の引用もされているっぽい。マルコムがタイプライターで打っていたのもきっとそう。どちらも読み込めてないので鵜飲みするしかないけど、解説の「ハムレット」と「マクベス」の比較が面白い。なぜ「マクベス」でイマ―シブシアターを作ろうとしたのか、腑に落ちた気もした。
前者(ハムレット)が劇の世界の中心にあり、彼をめぐって多くの同心円が描かれているのに対し、マクベスは彼自身の世界を形作っているにすぎない。マクベスは主人公であるが、ハムレットのような意味での中心人物ではない。ハムレットの世界は常に外に向かって開かれているが、マクベスのそれはあくまでも自己閉鎖的なのだ。このマクベスの限定された個人的な世界には、マルコムらの公的な秩序の世界がまっこうから対立しているのである。
 
ハムレットは多元的、現実的な時間を生きているのだ。それに対し、マクベスはいわば「ファンタスティック」な生活を送っている。自分の野心、自分の恐怖が生み出す内面のどす黒い世界の中でマクベスは夢のように生きているのだ。
 
1211
「スリープノーモア」関係で、ジョン・クリザンクのタマラという戯曲の存在を知る。

nikkan-spa.jp

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確かに「スリープノーモア」の原型っぽさもありながら、これはこれでめちゃくちゃ楽しそうだし、これは日本でもできそう!

 

1212

ここ1週間くらい自律神経が乱れてるっぽく、動悸息切れでめちゃくちゃしんどい。「スリープノーモア」に興奮しすぎた?死にそうになりながら、東京へ撮影の立ち会い。今回もプロの仕事をひしひしと感じた。美術館に行く時間はなく、大人しく帰る。

 
1213
突如、アーミー・ハマー欲に襲われる。
厚生労働省から裁量労働制の調査票がきていて、経理と一緒に回答。年間の実働時間とみなし時間の比較も見せられたが、みなし時間の半分ほどしか実働していなかった…!暇なのバレとる…!これには経理担当も「じ、時間を上手く活用されてますね…」としかリアクションできていなかった。
「ビッグフィッシュ」を観る。
 
1214
宝塚ホテルへ。春野さんDS。

 
1215
叔父の見舞い。祖父の最期に近い状態だった。うちの家族はみんなコミュ障なので、特にこういうシーンにおいて、本人に対しても身内に対しても適切な言葉やスキンシップが見つからなくて、ただ病人の顔を眺めつづけるということになりがち。帰宅して、「君の名前で僕を呼んで」でアーミー・ハマー充。美の殴り合いすぎて意識が遠のく。これ、スクリーンで観た人、生きて帰ってこれてます…?熱に浮かされ原作本をポチった。流れで「マスカレードホテル」を観てみる。
2時間ドラマを観ているようだった。「いだてん」が終わった。ちゃんと最後まで「走って」いた。
 
1216
「下り坂をそろそろと下る」読了。
坂の上の雲」の一節を借りて、「まことに小さな国が、衰退期を迎えようとしている」から始まる。もはや成長することなく、衰退の一途を辿る日本で、いかに絶望せず、あるいは寂しさから目を背けず、豊かに希望を持ちながら下り坂を歩いていくか、の提言。16年出版ですが、ネトウヨヘイトスピーチに大学入試改革、仮想敵、非寛容…今では更にシビアな問題に。オリザさんは、アートマネジメントに留まらず、演劇的手法がコミュニケーション力の養成にいかに有効であるか、を説いていて、観劇するだけの立ち位置で安穏としていると、ハッとさせられることが多い。しかしここで問題なのは、わたしは演劇が好きでなおかつそれに従事してもいるのに、圧倒的にコミュニケーション能力がない(鍛える努力をしてこなかった)ので、オリザさんの提案に納得しながらも自らそれを実践できず、ジレンマに引き裂かれてしまうってこと。悲しい。あと、印象に残ったのは、文化の自己決定能力(自分たちの誇れる文化や自然は何か。そこにどんな付加価値をつければよそから人が来てくれるかを自分たちで判断する能力)。本の中では地方振興の問題として登場するキーワードではあるけど、そもそも国家レベルで(cool Japan…それこそKERENとか)この力を疎かにしている。異なるコンテクストを持つ人たちと接触することによって、客観的に物事を把握し(ありのままにものを見る)、自己確立し、正しく自己肯定力を身につけること。それなくして、文化も歴史も語れるはずがない。
 
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「スリープノーモア」ヤバイですよ…とK先輩を洗脳し続けていたら、ざっくりとイマーシブ体験に興味を持ってくれたようで、ふたり忘年会という名目でVRに連れて行ってくれた。VR後、新地ディナー。
 
 
 
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関西の劇場&美術館周辺ランチ(@mylunch2017)がシェアした投稿 -

新地へ来ると昭和はまだ続いてるのではと錯覚する。世間のトレンドとは一線を画した男女がいて、建物があって、お料理がある。そして、今日はまりあの誕生日。

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1218
S先輩と新入社員の子とランチへ行く。
いとうせいこうさんに興味があり、「ノーライフキング」を読んだ。
ゲームと現実の接続や都市伝説的な噂話の拡散で、リアルの遠近が急速に変わっていくのは面白かった。ただ読解力がないのでなかなか物語を掴みきれないまま読み進んで、ようやくぼんやりと方向性が見えてきたところで終わった。虚実ないまぜの噂話とゲーム、子供達だけの情報網、そこに巣食うノーライフキング(死)。腹落ちしたのはあとがきを読んでやっと。子供時代の「死」への猛烈な興味/恐怖心のジレンマから、(見かけ上)死への恐怖を克服、あるいは折り合うイニシエーションは、爽やかに描けば「夏の庭」や「スタンドバイミー」になるわけですが、こちらはそう一筋縄ではいかない。でも、それは一見ぶっ飛んでいるようで、実はかなりリアルな手触りなんだと思う。
 
1219
君の名前で僕を呼んで」のめちゃくちゃ面白い考察を読んで興奮。

前に読んだこちらともリンクしていた。

wezz-y.com

www.kitamaruyuji.com

 
1220
仕事。
 
1221
中学時代、新3部作の公開が始まったタイミングで「スターウォーズ」にどっぷりハマった。特に旧三部作のハリソン・フォード演じるハン・ソロに恋い焦がれ、エピソード5は文字通りビデオが擦り切れるほど観たっけ。ライトセーバーディアゴスティーニやフィギュアも集めるほどに熱狂しつくした。続三部作のニュースが舞い込んだのは大学生時代?まさかの旧三部作キャスト揃い踏みで大興奮した。しかし、いざ意気込んでep7を観に行ったら、あまりにも二次創作的で萎えてしまい、ep8は撮りためたまま長らく封印していた。でもさすがに、完結編は映画館で見届けないとな…と思って、封印を解いてみた。レイアが宇宙を飛んでいくSW史上最大の爆裂フォースとか、謎のルートからドヤ顔登場するルーク(しかも実体ではない)とか、ハリポタ感満載のレイとカイロ・レンとか。レイ、同僚に似すぎ!とか、ポー・ダメロン、もはやラミンやろ!とか、色々爆笑しながら、最終的にはさめざめ泣いていた。だって、ルークとR2が、レイアとルークが再会してしまうんですよ…?彼らの憂いを帯びた表情や苦しい局面に立ち向かう姿、そこに見え隠れするかつてを彷彿とさせるユーモアを見るにつけ、彼らの輝かしい青春との間にどれだけの日々の集積があったんだろうと思って(それは俳優自身の人生、観るこちら側の人生も乗っかって)、こみ上げてくるものがある。レイアのジョーク、ルークの悪戯っぽいウィンク。変わらないコアな部分を覆い尽くす彼らのシワの一本一本が愛おしくて、ぐっしょぐしょに泣き崩れてしまう。まだ、続いている…彼らの、そして私たちのサーガは…!その実感に、心震えてしまう。続三部作では、ポリティカルコレクトネスが重視され、様々な人種、女性の活躍が飛躍的に増えた。これには旧来のSWファンから批判が相次いだらしいけど、女性が、特にアジア系女性が活躍するのは、単純に心が躍った。
 
1222
スターウォーズ熱が急激に高まり、「スカイウォーカーの夜明け」を見る心の準備も兼ねて、1〜6まで駆け足で見返した。オビワンの人生を思っておいおい泣いた。新3部作を観ると、ep4が全く違って見えてくる。
晩ごはんを作った。手羽先。サンラータン。
 
1223
この週末、完全にスターウォーズ脳になってしまって、「君の名前で僕を読んで」の続きを読み始めるとうっひょー!と赤面してしまった。ようやく同僚のOさんにレイに似すぎであることを伝えられた。すっきり。帰りにロフトのスターウォーズストアに行く。10周ぐらいして未練たらたら帰る。
 
1224
グループ全体の研修。弊社から参加した三人とも名刺を持ち合わせず手書きの名札を見せびらかしながらあいさつした。さすが弊社クオリティ!コミュニケーション能力0の身からすると、ここが地獄というやつかな?の責め苦が続く研修だった。孤独のグルメをしてなさそうな松重豊吹越満ソロアクト感をプラスした講師、えげつないわー。挙げ句の果てには発表の様子をスマホで撮られるという羞恥プレイまで。普段から自分を客観視できてないこじらせアラサーなので、久々に自分のヤバい姿を直視した。想像以上に挙動不審!来年のスローガン:「自分は他人にとって客体」に決定。会社に帰ってきたら職場のお姉様に、顔疲れてる!顔色悪い!今日クリスマスやで!!と全力で叱られた。うーん、地獄の責め苦のせいかもしれないしデフォルトな気もする。そうこうしてるうちに、叔父が亡くなっていた。
 
1225
今日のハイライトは、職場にお歳暮と称してスイカがゴロゴロ届いたことと、オビワンにバッサリ斬られたはずのダースモールが実は生きてたという衝撃の事実を誰かに言いたいのに誰にも言えず最終的に母に打ち明けたら期待通りのリアクションでほくそ笑んだことと、S先輩と、甘いものを食べると耳の下が痛くなるI先輩と一緒にパンケーキを食べに行って、I先輩はやけくそで食べてたくせに、どういうわけか三人で撮った写メはI先輩が一番の満面の笑みだったこと。
 
1226
例年通り忘年会欠席。たまたま叔父のお通夜が入って欠席の理由ができた。そんなミラクルいらん。棺の中の叔父は口をだらりと開いていた。どうやら湯灌が酷かったらしい。ただジャグジーに浸かっていたとか。祖母の時はどこぞの宝塚男役のような風情の女性が一挙手一投足厳かに拭き清め綺麗にお化粧してくれて久々に祖母らしい表情をみた気がして感動したし、祖父の時は生前気に入っていたスーツを着せてくれ、もともとはっきりした顔立ちだったのを役者のようにシュッとさせてくれた。叔父は自分の死期を悟り、遠方からも友人たちを呼んでいた。最後の晴れ舞台のはずだったのに、あんまりだと思った。
君の名前で僕を呼んで」を読み終える。
ページをめくってもめくっても、オリヴァーへのエリオの想いが滴り落ちてきた。こちとら31歳の今も相当こじらせているので、エリオ、わかるーわかるよーと、かなりエモーショナルになりながら必死に受け止め続けた。小説の世界では、20年後の二人が顔を合わせる。なのに、というより、だからむしろ、辛さが増す。結婚して子供を2人持つオリヴァーはエリオとの関係を「パラレル」と表現する。一方のエリオはオリヴァーのいない世界は「昏睡状態」で、オリヴァーと出会うときだけ、人生が目覚めると。ともにあの夏の記憶は何一つ忘れず心は通じ合っているのに、エリオは「君の名前で僕を呼んで」もらえない。エリオを唯一の半身と認めてしまうと、オリヴァーはこれまでの自分の人生を裏切ることになるから。で、続編のタイトルがFind meときた。これは半身を失くしたエリオの悲しい叫びなのかな…辛い。映画、小説それぞれ別の美しさ、エモさ、切なさがあって、どちらも好き。夏が来るたび思い出すんだろう。
 
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叔父のお葬式から会社へ。K先輩とラ・バルカッチャでランチ。
 
1228
打ち合わせというかもはや雑談。3時間やったのに何一つ決まらなかった。なんなんだ…。
 
1229
お休み。年末を乗り切るパワーチャージ(と言う名の家で何もしない)
 
1230~1231
仕事