だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『サクラヒメ』@南座 感想

大手の演劇製作会社が手掛けた初めてのイマーシブシアターであること、しかも、南座フルフラット化、初DAZZLEということで興味津々。S先輩、K先輩と共に行ってきました。ちなみに、S先輩は『スリープノーモア』に一緒に行ったイマーシブ仲間、K先輩はイマーシブシアター初参加。

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客席空間と一体となった舞台で、物語の世界へ自ら飛び込むか!それとも、雲上(2・3階エリア)から彼らの運命を裁決(投票)するか?二つの観劇スタイルから選んで楽しむ南座発!体験型マルチエンディング演劇誕生!!
日本最古の歴史を持つ劇場・南座で行われる初の本格的イマーシブシアター『サクラヒメ』。歌舞伎の『桜姫東文章』に材をとり、イマーシブシアター(体験型公演)に仕立てたオリジナル新作。
1階の観客席を全て取りはらい、舞台面と同じ高さにする南座の新機構“フラット化”を活用し、舞台と客席エリアを完全一体化。その広い空間のいたるところで同時多発的に行われるパフォーマンスを、手の届く距離で観劇できる新しい演劇体験をお楽しみください。
「自分の意志で見るシーンや結末を決める」ことが出来る“南座版イマーシブシアター”。日本におけるイマーシブシアターを牽引してきたダンスカンパニー「DAZZLE」による脚本・演出で、皆さまひとりひとりにとっての“自分だけの物語”を体験してください。

ざっくり一言で感想をまとめるとこうなります。
わたしとS先輩が思うイマーシブシアターではなかった。

まず、私達は2階席を購入したので、着席して観劇する「雲上人」にあたる。キャストが何度も2.3階に登場したり、結末を採択できる権利は持つものの、自ら自由に回遊できるわけではない。といっても、全て織り込み済みでこの席を購入してるのでそれ自体は全然良い。でも、2階から見る限り、1階の「都人」も回遊できてなくない…?元々の舞台部分である劇場前方はアクティングエリアとしては機能するものの、舞台袖の問題などもあるので、お客さんの立ち入りは禁止。オープニングシーン後には劇場中程の元客席部分に大きな移動式装置が2つやってきて、そこもお客さんが立ち入れないアクティングエリアになるので、お客さんの居場所がさらに狭まる。(1階後方部分の状況は全く見えていません)主なパフォーマンスは主に前方〜中程で行われているので、この日、70〜80名ほどいた都人たちは、ほとんどの時間、この2つのセットの間にひしめき合うことになっていた。それに、スタッフからの指示があったか自発的だったか定かじゃないけど、元の舞台部分のパフォーマンスを観たい人が集まって来た時、後ろの人が見えなくなるのを防ぐため(なんせフルフラットなので)、皆でぎゅうぎゅうになって地べたに座り込む。これには、紅テントで尾てい骨が死んだ記憶が蘇り、自分のお尻まで痛くなった気がした。しかも、この地べたに座って観るという時間が長い。確かに、同時多発的に別場所で各キャラクターが踊ってはいるんですけど、さほど動き回るまでもなく、一定場所でのダンスパフォーマンスが続くので、お客さん側も同じ位置で観るだけという。そして、そのパフォーマンスが終わる度に拍手が響いて、あぁこれはもう没入ではないな…と思った。ただの紅テント…。もちろん、ところどころで、都人たちが移動式舞台上に導かれ、お座敷遊びに参加させられたり、喋りかけられたりする仕掛けもあるけど、ごく少人数ずつ。あとは、その他大勢としてぎゅうぎゅうにひしめき合っている。ふらっと「回遊する」という中間項がない。フルフラット化という特殊機構ゆえこのイマーシブシアターが実現したけど、イマ―シブシアターの経験が浅い中の考えとしては、いくつかの階層や空間を移動することで、全てのパフォーマンスを見渡すことができない、視覚の困難さがイマーシブシアターの面白さの大きな要因だと思っているので、むしろ真逆の効果を生んでしまっていた(運営面では一括管理出来て楽だったと思うけど)。没入面で付け加えると、都人は黒い羽織を着させられ、没入度を高める工夫がなされている。でも、役付きでないダンサーたちもほぼ同じ黒い衣装を着ていて、区別がつきにくい上に化粧っ気もほぼなく、ヘアも舞台用とは到底思えない至って普通の髪型(ポニーテールとか)をしてる。これは都人として参加者に寄せてきているから…?いやいや、さすがにこれで世界観に引き込むのは難しいのでは。
次に、作品内容。ストーリーは「桜姫東文章」よりとなってますが、踏襲しているのは、輪廻転生と桜姫の手が生まれながらに開かないというモチーフのみ。舞台上で日毎生まれる芝居自体が、毎日同じキャラクターが同じストーリー(人生)を繰り返す輪廻転生みたいなもので(これを上手く芝居化しているのが、エリザベートやスリープノーモアやエターナルチカマツ)その輪廻転生の行く末をあなたの手で、少し変えてみませんか?という趣向自体は面白いと思った。ただその枠組み以外の中身はあってないような感じ。ダンスはほぼ全編テイストのまま代わり映えがせず、時々挟まる台詞は安っぽく、何故か録音済みの白々しい芝居に口パクで合わせている。プリンシパルの衣装や音楽もセンスが合わず、KERENを思い出してしまった。おまけに、雲上人に委ねられる結末というのも、5人のイケメンキャラのうち誰を桜姫と結び合わせるか、という乙女ゲーでしかない。(サクラヒメを拐かした盗賊がいきなり5人のイケメンたちに宝物を持ってこい!と言い出して、かぐや姫的な…?と思ってると、イケメンたちが「俺の足をくれてやる!」的な体の部位で返していて、そっちかい!と思いました。これ、手の人いたっけ…?サクラヒメの指が開かないから手、とか、実はそういう正解があるんでしょうか。)
わたしは存じ上げなかったのですが、キャストはそれぞれ人気のあるかたのよう。歌やアクロバットやダンスやタップなど、それぞれの武器を持っている。各キャラがそれぞれにパフォーマンスを始めると、都人がそれぞれの「推し」の元へ殺到する。推しの役柄のテーマカラーに合わせてコーデをしてきた人、推しを近くで観れて思わずテンションが上がってニマニマしてしまう人、一挙手一投足目を離さない人、ずっと手を振ってる人。それを上から観る我ら…これは一体何なんだろう。運営上の諸々のリスクの高さも、一気に没入をしらけさせてしまうムードも…イマーシブシアターでの名のある人の扱いの難しさを改めて実感した。でも悲しいかな日本は、票を持ったキャストによる集客に依存している。。。
クラヒメの相手をイケメン5名から選ぶ投票は、事前に渡された用紙を折って、選んだキャラのカラーを掲げる。

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でも、こうなってくると、おのずとただのキャスト人気投票に変わりますよね。ファン的にはこちらの方が燃えるのかもしれないけど、本来の趣旨から外れてしまう。そういう意味でも、人ではなくストーリーをいじれる方が良かったと思う。雲上人の投票の後、5人の中から徐々に脱落していくダンスを挟んで、選ばれたイケメンとサクラヒメのハッピーエンドフィナーレを観ながら、これ完全に「わたしのホストちゃん」やろ…とうち震えました。

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なんか色々ともやもやしてしまって、アフタートークショーで「DAZZLEは日本一、世界一イマーシブシアターを作っている」と自己紹介していて、そ、そうかー…と冷めてしまった。とはいえイマーシブシアターには合わない特異な空間だったので、本領発揮はDAZZLE本公演のほうなのでしょう。めげずに観に行きますー…。

『天使にラブ・ソングを』感想

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音楽 アラン・メンケン

歌詞 グレン・スレイター

脚本 チェリ・シュタインケルナー&ビル・シュタインケルナー

演出 山田和也

出演

デロリス・ヴァン・カルティエ:森 公美子/朝夏まなと(Wキャスト)

エディ:石井一孝

カーティス:大澄賢也/今 拓哉(Wキャスト)

シアター・メアリー・ラザールス:春風ひとみ

シスター・メアリー・パトリック:未来優希

シスター・メアリー・ロバート:屋比久知奈

TJ:泉見洋平

ジョーイ:KENTARO

パブロ:林 翔太(ジャニーズjr.)

オハラ神父:小野武彦

修道院長:鳳 蘭 ほか

ミュージカル最高!と心から思える大好きな作品。しかも、モリクミさんと宝塚OGキャスト(瀬奈さん、蘭寿さん、朝夏さん)のデロリスにはダブルキャストの意義をひしひしと感じ、ツレさま、春風ひとみさん、塩田先生に至るまで、東宝きってのベストキャスティング。今回、期待していた朝夏デロリスは、薄味で歌も辛め。ミサシーンになると、長い手足を生かして一気に映える。屋比久メアリーロバートのまっすぐな芝居と歌に、ハッピーオーラが全身から溢れ出す未来メアリーパトリック、春風メアリーラザールスは動きもキレキレなのが最高。この3人が輝くと、加速度的に面白さが増す。オハラ神父、意外と難しいんですね。やはりここはいい感じに世俗にまみれていた村井國夫氏を推したいところ。カーティスは真っ当に悪役をやってくれる今さんが良かった。顔面から溢れ出るオーラ、物腰の美しさに茶目っ気。ツレ様の修道院長は今回も麗しゅうございました。

初演は瀬奈デロリスで見て、カリスマ性やリーダーシップ性で彼女を中心にシスターたちが絆を深めていくように見えてたのが、前回モリクミさんで観て、イメージがガラッと変わった。自分の夢や理想に向かってキャリアアップを目指すも、思い通りにいかずもどかしく毎日を送るデロリスが、人生の主役の座をつかむ物語に見えた(エディもまた同様に)。思いがけぬ人生の寄り道をして、誰かに必要とされる喜びに触れ(その瞳に映る自分が素敵に見えた)自分の人生を見つめ直し、生きる道を選択する。それでいて、「生きてこなかった人生」でシスターメアリーロバートの想いが溢れ出たように、たどり着けなかった夢も選び取らなかった選択肢も「あったかもしれない人生」として、まるごと抱きとめる。「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか。」「カルテット」で輝いていたあの台詞のように。抜群のスター性を誇り自然とみんなのリーダーになる宝塚トップスターとは対照的に、わたしがモリクミデロリスから感じるのはそういうイメージでした。かなり戯画的に作り込みコメディセンスも抜群なのに、孤独に不器用に人生を歩んでいるリアルさを不思議と感じ取れる。そして、パジャマのシーンで、お祈りの言葉がぽつりぽつりとやがて堰を切ったように音楽に乗せて思いが溢れ出すところも、彼女たちを結びつけているのは、ひとえに音楽の力なのだと納得させてくれる。1幕終盤、シスターたちの歌声が磨かれ、やがて心通い、力強くひとつにまとまっていく過程に胸が震えるのは、そこにミュージカルの源泉みたいなものも見ているからかもしれない。デロリスと修道院長が立ち位置を逆転させて、冒頭シーンを反復するラスト。シスターたちみんなで音楽を紡ぐことを「神の御技」と「人と人との繋がり」の表裏一体だと分かち合うこの2人のやり取りは、(良い)ミュージカルが持つ「奇跡」をも的確に言い当ててくれる。こんなに楽しいミュージカル讃歌、人生賛歌ってなかなかないので、これからも何度も通過儀礼的に観ていきたい。

しかしながら、カーテンコールの振付講座。。色気を出してカーテンコール用のペンライトまで売ってたけど、これいる…?(TdVと全く同じ感想)あと、ツアー公演ではオケピを端渡す通路がなくなって客席降りが一切なくなっていたので、それも込みで、さらにペンライトいる…?ってなった。

『ダンスオブヴァンパイア』@梅田芸術劇場メインホール 感想

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脚本・歌詞:ミヒャエル・クンツェ

音楽:ジム・スタインマン

演出:山田和也

キャスト

クロロック伯爵:山口祐一郎

サラ:神田沙也加 / 桜井玲香(Wキャスト)

ルフレート:相葉裕樹 / 東啓介(Wキャスト)

マグダ:大塚千弘

シャガール:コング桑田

レベッカ阿知波悟美

ヘルベルト:植原卓也

クコール:駒田一

アブロンシウス教授:石川禅

ヴァンパイア・ダンサー:森山開次 / 佐藤洋介(Wキャスト)ほか

セット・照明を大幅にリニューアルしたらしい。確かに、トランシルヴァニアの宿屋から伯爵のお城に至るまで、かなり嵩高くなっていた気がするし、盆が廻りながらセリ上がるなんて、宝塚以外で見たのいつぶりだろう。

祐さまは囁きパートが増したようで、ほぼ聴力検査状態だった。禅さんはお遊び控えめで安心。初見の桜井玲香さんは肺活量が圧倒的に無くなったふうかちゃんみたいな歌だった。性的メタファーとしてのお風呂、スポンジとか、役割を理解した上であざとく作って欲しいのだけど、あまりに普通の女の子として存在しすぎていて、話自体がぼやけてしまっていた。サラってかなり特殊なヒロインで人を選ぶ役だと思うので、もうちょっとキャスティングにひねりがほしい。相葉アルフレートも緩急に乏しいものの、「サラへ」は力強くてとても良かったし、意外にもヴァンパイアになってからのちょい悪な雰囲気が桜井サラと共にハマっていて、フィナーレがグッと盛り上がった。植原ヘルベルトは期待を上回る存在感。2.5次元出身者は台詞のないような短時間の出番やモブ芝居でもしっかりキャラ作りできる特技を持っていると思っている。今回は初めて植原さんを観た「黒執事」を彷彿とさせるような癖強めの役柄で、キャラ作りのうまさはある程度想像してたけど、びっくりしたのは、スタイルの良さも手伝って、独特のオーラで登場の瞬間から目を引きつけたこと。アドリブで笑いも取りつつ、お耽美でしっかり色気があるのがいい…!フィナーレのマグダとの2トップもサマになっててカッコ良かったー。そのマグダはかつてのサラ、大塚千弘さん。ジェニファーやソニンのパンチ力はない分コケティシュな色気があって、こちらもオーラ充分。「パジャマゲーム」といい今回のマグダといい、かつてのヒロインが年齢を重ねて魅力をさらに増すって本当に素晴らしいことだと思う…。阿知波さんの変わらぬ存在感も堪能…本当に上手い。今から『ビリー・エリオット』が楽しみすぎる。そういえば、ヴァンパイアダンサー達の振付とか出番って変わりました?熱・圧が増したような気がして、見応えあった。推しダンサー花岡さんがサラの影をやっていて嬉しくなった。フィナーレではソロや森山開次さんとの絡みも。

この作品、B級ホラーとかカルト映画好き、テーマパーク好き?とか、むしろミュージカルファン以外の方が刺さるのでは、という気がしているのに、特に大阪はなかなか根付かない。ゴシックホラーの世界観、散りばめられた性的メタファー、ホラーの形をとって理性(人間)対 欲望(ヴァンパイア)の図式を鮮やかにひっくり返して見せる社会風刺(ヴァンパイアが人間世界に蔓延する様を見過ごして、人間・理性の勝利を高らかに歌い上げる教授こそ最も欲望に取り憑かれた、ヴァンパイアだった)、めちゃくちゃ盛り上がるフィナーレなどなど、興味を持ってもらえそうな要素はたくさんあるのに、かたや山口祐一郎特別公演という特殊な要素が大きく占めて作品の持ち味が変わってしまっているので、気軽にオススメできないんですよね…惜しい。海外で見たい作品第一位がこれかもしれない…特別公演ではない「ダンスオブヴァンパイア」…

あ、あと、最近の客席巻き込み型カーテンコール、わざわざ振り付け講座まで必要…?今回特に、普通にフィナーレが盛り上がるのに、そっから振付講座されて踊らされても逆に醒めません…?踊りたい人は踊ればいい、くらいの感じで熱が冷めないうちにカーテンコールまで一気にお願いしたいな…。

宝塚花組『マスカレード・ホテル』@シアター ・ドラマシティ 感想

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ヤバい噂を聞いていたので覚悟して観たら、そこまで破綻してなかった。谷作品のヤバい基準が『キャプテンネモ』っていうのもあるし、そもそも映画版が酷かった…よね?こちとら、ホワイトボードが3枚並んだくらいではもう驚かないですね…。汝鳥さんがボックスステップ踏んでても何ら動じない、見据えるのみ。

映画寄りにカジュアルに味つけるのかな、と思っていたら、ごりごりのハードボイルドになっていて、谷先生のブレなさを思い知った。映画があろうが、現代日本の設定であろうが、(一昔前の)宝塚のフォーマットに容赦なく落とし込まれる。しまった、谷先生とはそういう男だった…!映画と大きく違ったのは、新田(瀬戸さん)の相棒 能勢(飛龍さん)が2番手ポジションになり、新田の可愛がる若手刑事になっていたこと。飛龍つかささんがはっちゃけて良いムードメーカーになっていた。ただ、能勢の力をもってしても、全体的に芝居が硬く、窮屈。ヒロインの山岸(朝月さん)が典型的な娘役芝居で、もうそろそろこの呪縛みたいな娘役という生き物から抜け出してもいいのでは…と思った。朝月さんといえば、わたしの中では『MY HERO』なので、こういう芝居以外もちゃんとできる人だと思ってるんだけど。犯人役の音くり寿さんが上手く声を使い分けて、好演していた。本性を現わしてからもう一押しほしいけど、宝塚的にはこれが限度なんでしょうか。

ハードボイルドな男役とあくまで清廉な娘役たち。わたしは、ホワイトボードより刷新されないこの古典的なフォーマットが気になった。柚香さんのプレお披露目で花組戦力大結集の「DANCE OLYMPIA」の裏でスターが欠ける中でも手堅くまとめられ、加えて、スター路線ではない瀬戸さんの立ち位置やキャラクターにもよくハマった作品だったとは思うけれど。

就職してからは、宝塚を中心に観劇しているわけではないし、年々、寄り添って見れなくなってきたという自覚はある。一番の引っ掛かりは、今回の作品に限らず、宝塚の世界と現実社会で求められる男女観の齟齬が大きくなって、宝塚が見せる保守的な世界観に夢を見られなくなってきたことかもしれない。宝塚的に何が正しくて、何を更新すべきで何がリミットなのか、作り手側はファンの願望や時代の流れを汲み取りながら、より自覚的になって欲しいと思う。宝塚が「時代遅れのコンテンツ」にならないために。もちろん濃淡や価値観の違いはあっていい。常に多様性を抱き込むのが宝塚の良さなので。そして、そういう一種のカオス状態から新しい作風なり男役・娘役像が生まれたり、逆に一つの作品やスターが新しいムーブメントを生むのでは…と淡い期待を込めながらゆるく見守っていきます。

『ファントム』@梅田芸術劇場メインホール 感想

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【脚本】アーサー・コピット

【作詞・作曲】モーリー・イェストン

【原作】ガストン・ルルー

【演出】城田 優

【出演】

ファントム(エリック):加藤和樹城田優

クリスティーヌ・ダーエ:愛希れいか・木下晴香

フィリップ・シャンドン伯爵:廣瀬友祐・木村達成

カルロッタ:エリアンナ

アラン・ショレ:エハラマサヒロ

ジャン・クロード:佐藤玲

ルドゥ警部:神尾佑

ゲラール・キャリエール:岡田浩暉

少年エリック:大河原爽介・大前優樹・熊谷俊輝

安部三博、伊藤広祥、大塚たかし、岡田誠、五大輝一、Jeity、染谷洸太、高橋卓士、田川景一、富永雄翔、幸村吉也、横沢健司、彩橋みゆ、桜雪陽子、小此木まり、可知寛子、熊澤沙穂、丹羽麻由美、福田えり、山中美奈、和田清香

 

梅芸版初演の「ファントム」がトラウマになり過ぎていて、それから梅芸版は全く観る気が起こらなかったけど、3度目の再演になる今回、ついに思い切って観てみた。

まず驚いたのは、開場中の劇場全体を使ったイマーシブシアター的な演出。

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街灯が立ち並んだロビー。手廻しオルゴールの賑やかな音色が響く中、パリ市民たちが優雅に回遊し、案内係も特別な衣裳に身を包み、劇世界の一部を担っている。役者たちはパリの街並みを模した舞台上と客席を行き来しながら互いに声を掛け合い、お客さんも巻き込んで会話を交わす(時にはパンフを売りつける)。場内アナウンスも劇世界に沿ったもので、このムードを壊さない。すると開演ベルもなしに突然照明が切り替わり、役者たちがストップモーションに。一気にオーバーチュアに雪崩れ込む。2幕冒頭も客電の消え方にひと工夫あり、パリ オペラ座の世界へと一気に引き込んでくれる。こういう仕掛け、素直にわくわくさせてくれるし、確かにこの作品の場合はこういう広げ方も全然ありやな…!と目からウロコだった。

こう書くと、目眩し的な派手な演出に見られるかもしれないけど、他にも良い点はたくさん。宝塚版は装飾過多と感じていたセットがシンプルにまとまり、美しい。オペラ座のバックステージ物というのがこの作品の醍醐味のひとつだと思っているので、しっかり堪能できた。ただ、転換の処理が甘くて暗転で間延びしてしまったり、客席使用を多用しすぎるのには辟易してしまった。それに、装置自体は良いのに、センターからちょっとずれただけでも大きな見切れが発生してしまうのは惜しい。

主役にミュージカルらしい華やかなシーンがない分、ビストロのグランドミュージカルらしい盛り上がり、シャンドンとクリスティーヌの「ララランド」風デュエットと、テイストのばらつきはあるもののミュージカル要素がしっかり補填されていたのもとても良かった。なかでも印象的だったのはベラドーヴァのシーン。ベラドーヴァを演じるのはクリスティーヌ役。しかも歌だけではなく激しいダンスも盛り込んで、躍動感をプラス。2幕の大きな見せ場になっていた。

この回想シーンが展開するオペラ座の地下世界が、劇中劇のタイターニャの世界と裏表になってモスグリーン一色で美しい。一方で、パリの街並みがラデュレやグランドブタペストホテルのように色とりどりに幻想的なのも、街の人たちがにこやかにコミュニケーションを取り合うのも、エリックの思い描く夢のパリだからなんだろう。オペラ座に張り巡らせた仕掛けで空高く舞い上がった彼を銃弾が貫く。太陽に焦がれたイカロスのように、彼もまた外の世界へ羽ばたく寸前で地に落ちてしまう。さすがエリック役者だけあって、最後まで、彼の目線をしっかりと体感できる演出だった。

加藤エリックは加藤さん本来が持つナイーブさとはまた違った、コミュ障オタクのような作りだった。最初は面食らったけどこれはこれでしっくりきて、新たな加藤和樹の一面が見れた気がした。今までほぼ宝塚版しか観ていないので、アウトサイダーとはいえトップスターの役柄として男らしく堂々とカッコ良く存在せざるを得ないエリック(その中でコミュニケーションの引き攣れをいい塩梅に出していた和央エリック、好きだった)とは全く違って、ジェンダーロールの薄い自然な口調(〜でしょ?とか)、一転、クリスティーヌに対する敬語での呼びかけ、とか、閉ざされた世界の中でいかに彼の言語感覚が培われてきたか、とか、彼の人間性やこれまでの人との関わり方が想像できる繊細な翻訳で、なおかつ、それを加藤さんがしっかり腹に落としていた。加藤さんのベストアクトだったと思う。歌に関しては台詞と地続きに、というコンセプトはわかるけど、Where In The World だけはもう少し聞かせて欲しかったな。クリスティーヌは木下さんで観た。ジュリエットよりずっとニンに合っていた。ベラドーヴァのダンスシーンはちゃぴのレベルに合わせたものなんだろうけど、木下さんもちゃんと踊れていたのには、びっくり!宝塚版よりナンバーも聴かせどころもずっと多い上に、このダンス。難易度の高いヒロインを見事に演じていた。岡田キャリエールはロマンスグレーのウィッグが馴染んでなく、身のこなしもやけに軽いので、どこかちぐはぐ。もう少し貫禄が欲しい。2幕のエリックとの場面は、視線を合わさずとも分かり合う関係から、堰き止めていた感情が溢れ出して、束の間、父と子の団欒に移り変わる様子がすごくいい。あえてセンターをはずして、階段前のちんまりとした空間で胡座をかくという親密さが良いけど、これも席によっては見えにくかったようですね。どの席からも観やすく、と、理想の追求のバランス、難しいな…。カルロッタは弱含みな芝居を逆手に、思い切ってキャラとして作り込んでいた。さすがに舞台上ひとりのソロ曲で舞台を掌握するには求心力不足ではあったけど、歌詞に合わせて舞台後方の幕が開き、実際のオケメンバーが彼女のために音楽を奏でる理想のオーケストラとして登場するという粋な仕掛けが大きなフォローになり、印象的な場面になった。エハラマサヒロさんのショレもテンポ良く、いいコンビだった。驚いたのは神尾佑さん演じるルドゥ警部。今まであまり重視したことのないキャラクターだったけど、特に2幕で、お客さんの目を悲劇に向ける、かなり重要な役どころ。芝居を締める人がいればこうも全体が変わってくるのか、と衝撃を受けた。一方で、ジャン・ピエールは女性の佐藤玲さんが演じていて、別に性別は男女どちらでも構わないけど、明らかに芝居が弱く周囲とのバランスが取れていなかった。木村シャンドンはせっかくの恵まれた頭身なのに、衣装の着こなし、身のこなしがロボットのよう。役柄が役柄だけに軽妙洒脱さがほしい。芝居や歌にも個性が出ず、全体的に薄味だった。ところで、少年エリックが目玉が飛び出すほどの激ウマだったんだけど、大前くんと熊谷くんのどっちだったんだろう…。

ミュージカルの殿堂(←ちょっとした皮肉を込めて)帝劇は出演だけじゃなく演出も選ばれし人しか許されない。ということは、演出家に紐づくその他諸々のプランナーもおのずと凝り固まっていく。安定感のある舞台は予定調和ともいえ、驚きに満ちた新しい舞台はできにくい。その点、安定感からは程遠く規模もノウハウもまだ発展途上中のサードパーティだからこそできた、チャレンジが詰まった舞台だった。素直にワクワクした。サプライズに興奮した。ミュージカルっていいな、と思った。感動して泣いた。そう、こういうエンタメを観たかったんだ…!

ミュージカル『ビッグフィッシュ』@兵庫県立芸術文化センター中ホール 感想

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■脚本:ジョン・オーガスト

■音楽・詞:アンドリュー・リッパ

■演出:白井晃

■出演:川平慈英浦井健治霧矢大夢、夢咲ねね/藤井隆、JKim、深水元基、佐田照(Wキャスト)、佐藤誠悟(Wキャスト)、東山光明、小林由佳鈴木蘭々ROLLY

初見。日生→クリエと初演からサイズが変わって、キャストも半減したよう。浦井くんやねねさん含め一人何役も演じ分ける小劇場スタイル。このコンパクトさが作品に合っていたように思う。エドワード役には川平さん。この難しい役柄に説得力を持たせられる人はなかなかいない。ひらめきに満ち、ウィットに富んでエネルギッシュ、落ち着きがなくていつも奔放ー川平さんの持ち味がピタリとはまっていた。妻サンドラ役のきりやんは「ラ・マンチャの男」よりも「ピピン」や今回のような役柄が似合う。軽やかでな身のこなしに、チャーミングな笑顔、完璧な衣装の着こなし。特に青いドレス姿の美しさにはうっとり。

ふたり以外もいつもの「帝劇キャスト」とは違った面々を揃えていて、意欲的なキャスティング。実際、1人ずつ見ていくと面白い部分もあった。ただみんなちょっとずつ芝居の力が足りないのか、目指す方向が違うのか、まとまりに欠ける。唯一帝劇主役組の浦井ウィルと夢咲ジョゼフィーンもパッとしない。真ん中に立つ川平さんもあくまで自分のテンポ感を崩さず、周りを見渡す余裕はない。となると、彼自身にイマジネーションのかけらを感じても、彼の目を通して舞台上のイマジネーションを感じ取ることができない。これはこの作品にとって致命的だと思った。

それに、作品としても、映画版に思い入れがあることもあって強制的に泣かされたけど、ミュージカル化することで新たな魅力を得たとは思えなかった。逆に、父と息子の対立がこんなにベタにミュージカルミュージカル描かれちゃうんだなぁ…と、残念に思った。後に書くように「ファンホーム」がチラついて、あの繊細さを基準に見てしまったのかもしれないし、激しく見切れる席から観ていたので(舞台上に無人の時間が30分くらいあったかも)、舞台へ入り込めなさも手伝ってたとは思う。おまけに、最後の最後、浦井くんの締め歌で子役が登場しないハプニングがあって、一気に、デトチリ大丈夫かー!?と現実に引き戻されたのもある。浦井くん、ずっと下手袖を観てたけど、結局出てきませんでした(直後のカーテンコールには登場)。

わたしは世の中の道理を理解するのが本当に遅いので、世間的には今更の話をしますが、数年前に「ファンホーム」を観たあたりで、家族(親子)って最も濃い間柄なのに、互いの半生を知り得ない、一緒に共有できる時間の少ない、なんて遠い存在なんだろう…ということに気づき…。親は子の将来を夢見、祈ることしかできないし、子は親のルーツを物語(今時の親子は生まれた頃からメディアに鮮明に記録できるのかもしれないけど)にしてしか受け取ることしかできない。(そういう意味で、子の名前は、一番短い物語であり、かつ、子の未来を託す祈りでもあって、親子が共有できる数少ない結節点なのかもしれない)それに、家庭にもよるでしょうが、一緒に過ごす時間ですら、親子の役割としてしか向き合っていなければ、その役割以外の個人の人となりをどこまで把握できているか、怪しい。(わたしは父の人となりを全然把握していない自覚あります)「物語らなかった父」@「ファンホーム」、「物語すぎる父」@「ビッグフィッシュ」の対照的な父親を探す旅を見て(ここに先週観た「ファントム」を加えてしまってもいいけど)何をどうやって物語り託すのか、逆に何を物語らず封印するのか、そして、どうやって物語を受け取め、その向こう側にいる物語の紡ぎ手に触れるのか、は、親子(家族)にとっての永遠の命題だなぁと思った。こういう作品を穏やかに見れるのは今のうちかな。親がさらに歳を重ねてからだと切実さが増して、直視できなくなるかもしれない。

納めない /12月よもやま

1201~2

上海。
 
1203
仕事。S先輩とランチ。「スリープノーモア」談義。
 
1204
1日中「スリープノーモア」について考える。
 
1205
大学生が経営してるというちょっとヤバめのカフェで、後輩二人に「スリープノーモア」をひたすら語るランチ会(相手にとって迷惑でしかない)
 
1206~8
1日中「スリープノーモア」について考える。(仕事そっちのけ)
 
1209
気になっていた「選択制演劇」を観に行った。

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イマーシブ仲間のS先輩、某イマーシブ関係者、わたしの3人で行くはずが、S先輩が急遽観れなくなり、2人で行くことに。オリックス劇場近くのイサオビル内の2〜4階を使った芝居。といっても、「スリープノーモア」のように、役者や観客が館内を自由に動き回るわけではない。3幕制で、1.2幕はキャスト4人が2人一組になって別の2部屋で芝居する。1幕はチケットを購入する時点でどちらの部屋を見るか選択済。芝居中は普通に着席して観劇する。 1.2幕でキャストの組み合わせが変わるので、1幕観劇後、今見た登場人物のうちどちらの続きを見るか選択し、また別の階の部屋に移動する。そして、3幕に初めて4人合流した芝居となるという、まさに「選択制演劇」。1.2幕は初日前夜という設定。明日上演する舞台の脚本が絶賛放送中のドラマの脚本に酷似していて、急遽、新たなホンを用意せねば!という流れ。コメディと謳ってたので、ここで、それぞれの組が新たにホンを見繕ってドタバタ稽古して、3幕目でがっちゃんこしたら奇跡的に噛み合うとか…そんなウェルメイドな展開…あるわけなかったですね。最終的に4人のうち1人が別の3キャラクターを生み出していたという夢オチに近い状態に。序盤から入れ子構造(…の役を演じるという役を演じるという役を演じる…)や記憶喪失で夢か現か、みたいな構造はチラついていて、それが最後にこうくるとは。確かに、ビルをまるごと借り切るのも「選択制」というスタイルも、別部屋の役者さんが部屋にやってきて思わぬ形で芝居が絡み合うのも、隣室同士で電話でやりとりするのも、面白いアイディアだと思う。でも、そういう飛び道具を扱うときこそ、勘三郎の言う「型があるから型破り。型が無ければ、それは形無し」という言葉通り、脚本や演技の基礎力が必要になるはずで。飛び道具に行きつくまでもなく、そもそもお芝居として成形前のむやみに言葉が垂れ流されるだけのカオス状態に、開始10秒で遠い目をしてしまった。今まで色んな芝居を観てきたけど、開始10秒は最速記録かも。今回観たのがたまたまエピソード0で本編ではなかったから、特に完成度が低かったのかもしれない。それでも、キャストのファンなのかリピーターがいっぱいいて、満足そうに笑っていた。演劇としては成り立っていないが、エンタメとしては成立している。そういうもんだよね、と思った。面白かったのは、終演後、ごく自然な流れでキャストの撮影会が始まったこと。職業柄、フォトセッションとなれば反射的に参加してしまう我ら。しかし、そのままカンパのご説明、懇親会へと華麗に流れていって、さすがに懇親会とは…?となり、未知の世界へ誘われそうだったので、失礼させていただきました。帰り道、感想が尽きずに異様に盛り上がった。
 
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「スリープノーモア」の余韻に浸りたくて「マクベス」を読み終わる。ずっと前に読んだきりだったので、こういう話だっけ!?と新鮮に読んだ。「スリープノーモア」では言葉の引用もされているっぽい。マルコムがタイプライターで打っていたのもきっとそう。どちらも読み込めてないので鵜飲みするしかないけど、解説の「ハムレット」と「マクベス」の比較が面白い。なぜ「マクベス」でイマ―シブシアターを作ろうとしたのか、腑に落ちた気もした。
前者(ハムレット)が劇の世界の中心にあり、彼をめぐって多くの同心円が描かれているのに対し、マクベスは彼自身の世界を形作っているにすぎない。マクベスは主人公であるが、ハムレットのような意味での中心人物ではない。ハムレットの世界は常に外に向かって開かれているが、マクベスのそれはあくまでも自己閉鎖的なのだ。このマクベスの限定された個人的な世界には、マルコムらの公的な秩序の世界がまっこうから対立しているのである。
 
ハムレットは多元的、現実的な時間を生きているのだ。それに対し、マクベスはいわば「ファンタスティック」な生活を送っている。自分の野心、自分の恐怖が生み出す内面のどす黒い世界の中でマクベスは夢のように生きているのだ。
 
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「スリープノーモア」関係で、ジョン・クリザンクのタマラという戯曲の存在を知る。

nikkan-spa.jp

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確かに「スリープノーモア」の原型っぽさもありながら、これはこれでめちゃくちゃ楽しそうだし、これは日本でもできそう!

 

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ここ1週間くらい自律神経が乱れてるっぽく、動悸息切れでめちゃくちゃしんどい。「スリープノーモア」に興奮しすぎた?死にそうになりながら、東京へ撮影の立ち会い。今回もプロの仕事をひしひしと感じた。美術館に行く時間はなく、大人しく帰る。

 
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突如、アーミー・ハマー欲に襲われる。
厚生労働省から裁量労働制の調査票がきていて、経理と一緒に回答。年間の実働時間とみなし時間の比較も見せられたが、みなし時間の半分ほどしか実働していなかった…!暇なのバレとる…!これには経理担当も「じ、時間を上手く活用されてますね…」としかリアクションできていなかった。
「ビッグフィッシュ」を観る。
 
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宝塚ホテルへ。春野さんDS。

 
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叔父の見舞い。祖父の最期に近い状態だった。うちの家族はみんなコミュ障なので、特にこういうシーンにおいて、本人に対しても身内に対しても適切な言葉やスキンシップが見つからなくて、ただ病人の顔を眺めつづけるということになりがち。帰宅して、「君の名前で僕を呼んで」でアーミー・ハマー充。美の殴り合いすぎて意識が遠のく。これ、スクリーンで観た人、生きて帰ってこれてます…?熱に浮かされ原作本をポチった。流れで「マスカレードホテル」を観てみる。
2時間ドラマを観ているようだった。「いだてん」が終わった。ちゃんと最後まで「走って」いた。
 
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「下り坂をそろそろと下る」読了。
坂の上の雲」の一節を借りて、「まことに小さな国が、衰退期を迎えようとしている」から始まる。もはや成長することなく、衰退の一途を辿る日本で、いかに絶望せず、あるいは寂しさから目を背けず、豊かに希望を持ちながら下り坂を歩いていくか、の提言。16年出版ですが、ネトウヨヘイトスピーチに大学入試改革、仮想敵、非寛容…今では更にシビアな問題に。オリザさんは、アートマネジメントに留まらず、演劇的手法がコミュニケーション力の養成にいかに有効であるか、を説いていて、観劇するだけの立ち位置で安穏としていると、ハッとさせられることが多い。しかしここで問題なのは、わたしは演劇が好きでなおかつそれに従事してもいるのに、圧倒的にコミュニケーション能力がない(鍛える努力をしてこなかった)ので、オリザさんの提案に納得しながらも自らそれを実践できず、ジレンマに引き裂かれてしまうってこと。悲しい。あと、印象に残ったのは、文化の自己決定能力(自分たちの誇れる文化や自然は何か。そこにどんな付加価値をつければよそから人が来てくれるかを自分たちで判断する能力)。本の中では地方振興の問題として登場するキーワードではあるけど、そもそも国家レベルで(cool Japan…それこそKERENとか)この力を疎かにしている。異なるコンテクストを持つ人たちと接触することによって、客観的に物事を把握し(ありのままにものを見る)、自己確立し、正しく自己肯定力を身につけること。それなくして、文化も歴史も語れるはずがない。
 
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「スリープノーモア」ヤバイですよ…とK先輩を洗脳し続けていたら、ざっくりとイマーシブ体験に興味を持ってくれたようで、ふたり忘年会という名目でVRに連れて行ってくれた。VR後、新地ディナー。
 
 
 
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関西の劇場&美術館周辺ランチ(@mylunch2017)がシェアした投稿 -

新地へ来ると昭和はまだ続いてるのではと錯覚する。世間のトレンドとは一線を画した男女がいて、建物があって、お料理がある。そして、今日はまりあの誕生日。

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S先輩と新入社員の子とランチへ行く。
いとうせいこうさんに興味があり、「ノーライフキング」を読んだ。
ゲームと現実の接続や都市伝説的な噂話の拡散で、リアルの遠近が急速に変わっていくのは面白かった。ただ読解力がないのでなかなか物語を掴みきれないまま読み進んで、ようやくぼんやりと方向性が見えてきたところで終わった。虚実ないまぜの噂話とゲーム、子供達だけの情報網、そこに巣食うノーライフキング(死)。腹落ちしたのはあとがきを読んでやっと。子供時代の「死」への猛烈な興味/恐怖心のジレンマから、(見かけ上)死への恐怖を克服、あるいは折り合うイニシエーションは、爽やかに描けば「夏の庭」や「スタンドバイミー」になるわけですが、こちらはそう一筋縄ではいかない。でも、それは一見ぶっ飛んでいるようで、実はかなりリアルな手触りなんだと思う。
 
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君の名前で僕を呼んで」のめちゃくちゃ面白い考察を読んで興奮。

前に読んだこちらともリンクしていた。

wezz-y.com

www.kitamaruyuji.com

 
1220
仕事。
 
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中学時代、新3部作の公開が始まったタイミングで「スターウォーズ」にどっぷりハマった。特に旧三部作のハリソン・フォード演じるハン・ソロに恋い焦がれ、エピソード5は文字通りビデオが擦り切れるほど観たっけ。ライトセーバーディアゴスティーニやフィギュアも集めるほどに熱狂しつくした。続三部作のニュースが舞い込んだのは大学生時代?まさかの旧三部作キャスト揃い踏みで大興奮した。しかし、いざ意気込んでep7を観に行ったら、あまりにも二次創作的で萎えてしまい、ep8は撮りためたまま長らく封印していた。でもさすがに、完結編は映画館で見届けないとな…と思って、封印を解いてみた。レイアが宇宙を飛んでいくSW史上最大の爆裂フォースとか、謎のルートからドヤ顔登場するルーク(しかも実体ではない)とか、ハリポタ感満載のレイとカイロ・レンとか。レイ、同僚に似すぎ!とか、ポー・ダメロン、もはやラミンやろ!とか、色々爆笑しながら、最終的にはさめざめ泣いていた。だって、ルークとR2が、レイアとルークが再会してしまうんですよ…?彼らの憂いを帯びた表情や苦しい局面に立ち向かう姿、そこに見え隠れするかつてを彷彿とさせるユーモアを見るにつけ、彼らの輝かしい青春との間にどれだけの日々の集積があったんだろうと思って(それは俳優自身の人生、観るこちら側の人生も乗っかって)、こみ上げてくるものがある。レイアのジョーク、ルークの悪戯っぽいウィンク。変わらないコアな部分を覆い尽くす彼らのシワの一本一本が愛おしくて、ぐっしょぐしょに泣き崩れてしまう。まだ、続いている…彼らの、そして私たちのサーガは…!その実感に、心震えてしまう。続三部作では、ポリティカルコレクトネスが重視され、様々な人種、女性の活躍が飛躍的に増えた。これには旧来のSWファンから批判が相次いだらしいけど、女性が、特にアジア系女性が活躍するのは、単純に心が躍った。
 
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スターウォーズ熱が急激に高まり、「スカイウォーカーの夜明け」を見る心の準備も兼ねて、1〜6まで駆け足で見返した。オビワンの人生を思っておいおい泣いた。新3部作を観ると、ep4が全く違って見えてくる。
晩ごはんを作った。手羽先。サンラータン。
 
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この週末、完全にスターウォーズ脳になってしまって、「君の名前で僕を読んで」の続きを読み始めるとうっひょー!と赤面してしまった。ようやく同僚のOさんにレイに似すぎであることを伝えられた。すっきり。帰りにロフトのスターウォーズストアに行く。10周ぐらいして未練たらたら帰る。
 
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グループ全体の研修。弊社から参加した三人とも名刺を持ち合わせず手書きの名札を見せびらかしながらあいさつした。さすが弊社クオリティ!コミュニケーション能力0の身からすると、ここが地獄というやつかな?の責め苦が続く研修だった。孤独のグルメをしてなさそうな松重豊吹越満ソロアクト感をプラスした講師、えげつないわー。挙げ句の果てには発表の様子をスマホで撮られるという羞恥プレイまで。普段から自分を客観視できてないこじらせアラサーなので、久々に自分のヤバい姿を直視した。想像以上に挙動不審!来年のスローガン:「自分は他人にとって客体」に決定。会社に帰ってきたら職場のお姉様に、顔疲れてる!顔色悪い!今日クリスマスやで!!と全力で叱られた。うーん、地獄の責め苦のせいかもしれないしデフォルトな気もする。そうこうしてるうちに、叔父が亡くなっていた。
 
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今日のハイライトは、職場にお歳暮と称してスイカがゴロゴロ届いたことと、オビワンにバッサリ斬られたはずのダースモールが実は生きてたという衝撃の事実を誰かに言いたいのに誰にも言えず最終的に母に打ち明けたら期待通りのリアクションでほくそ笑んだことと、S先輩と、甘いものを食べると耳の下が痛くなるI先輩と一緒にパンケーキを食べに行って、I先輩はやけくそで食べてたくせに、どういうわけか三人で撮った写メはI先輩が一番の満面の笑みだったこと。
 
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例年通り忘年会欠席。たまたま叔父のお通夜が入って欠席の理由ができた。そんなミラクルいらん。棺の中の叔父は口をだらりと開いていた。どうやら湯灌が酷かったらしい。ただジャグジーに浸かっていたとか。祖母の時はどこぞの宝塚男役のような風情の女性が一挙手一投足厳かに拭き清め綺麗にお化粧してくれて久々に祖母らしい表情をみた気がして感動したし、祖父の時は生前気に入っていたスーツを着せてくれ、もともとはっきりした顔立ちだったのを役者のようにシュッとさせてくれた。叔父は自分の死期を悟り、遠方からも友人たちを呼んでいた。最後の晴れ舞台のはずだったのに、あんまりだと思った。
君の名前で僕を呼んで」を読み終える。
ページをめくってもめくっても、オリヴァーへのエリオの想いが滴り落ちてきた。こちとら31歳の今も相当こじらせているので、エリオ、わかるーわかるよーと、かなりエモーショナルになりながら必死に受け止め続けた。小説の世界では、20年後の二人が顔を合わせる。なのに、というより、だからむしろ、辛さが増す。結婚して子供を2人持つオリヴァーはエリオとの関係を「パラレル」と表現する。一方のエリオはオリヴァーのいない世界は「昏睡状態」で、オリヴァーと出会うときだけ、人生が目覚めると。ともにあの夏の記憶は何一つ忘れず心は通じ合っているのに、エリオは「君の名前で僕を呼んで」もらえない。エリオを唯一の半身と認めてしまうと、オリヴァーはこれまでの自分の人生を裏切ることになるから。で、続編のタイトルがFind meときた。これは半身を失くしたエリオの悲しい叫びなのかな…辛い。映画、小説それぞれ別の美しさ、エモさ、切なさがあって、どちらも好き。夏が来るたび思い出すんだろう。
 
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叔父のお葬式から会社へ。K先輩とラ・バルカッチャでランチ。
 
1228
打ち合わせというかもはや雑談。3時間やったのに何一つ決まらなかった。なんなんだ…。
 
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お休み。年末を乗り切るパワーチャージ(と言う名の家で何もしない)
 
1230~1231
仕事