作・演出:前川知大
出演:浜田信也、安井順平、盛 隆二、森下 創、大窪人衛 / 村川絵梨、松岡依都美、薬丸 翔、東野絢香、市川しんぺー
CGどころか映像も、大掛かりな装置も何1つない。シンプルなセット、照明、音楽を駆使した、繊細な演出で舞台空間が醸成されて、そこに役者がしっかりと息づいている。演劇的なプロセスを忠実に固めていけば、こんな広大なSF作品を生むことができるのか…演劇ってSFに向かないと思ってたけど、なめてた…。
変死、行方不明事件、原因不明の「幸福感」。日常のタガがそっと外れ、気味悪さがじわりとにじむ。やがて日常の崩壊に紐付いて、様々な問題が提示されていき、「散歩する侵略者」や「太陽」にもリンクしながら、果てない荒涼感を生んでいく。
幸福感を生む代わり、死ぬまで身動き一つ取らず見つめ続けてしまう、謎の柱が大量発生。事件・事故であれ、天災であれ、どんな突飛なことが起ころうと、非日常を認めずに、できる限り変化のない日常を送ろうと、自分の理解可能な範疇へ押し込めようと補正をかけるのが人間。だからこそ佐久間たちはいつの世も変わらず、人に寄生して生き延びることができる。(「レ・ミ」のテナルディエ夫妻のように)
そして、しりあがりさんの「方舟」も思い出し、舞台の外で繰り広げられているだろう、無数の人たちの様子にも思いをはせる。
一方で、農家の山田たちは、新たに自給自足の生活スタイルを提案・実践して、現状に適応していく。
50年後。柱の存在を日常に溶け込ませるため、「御柱様」と名付け共存し、柱の力に影響を受けない新人類が誕生している。(この辺りは原作の方の『風の谷のナウシカ』を思い出しながら。)新人類は、旧世界の再興を司る存在として、権力者から政治利用されようとしている。山田は自給自足の伝道師となり、どうやら財を成したようで、2051年には使用人までいる身分らしい。でも、彼の孫(柱の影響を受けない新人類)が言うには、呆けた妻 桜と共に1ヶ月前に自ら柱の元へ旅立ち、抱き合いながら死んだと。
桜が、幼い頃亡くなった両親を、キリストとマリアに見立ててたというエピソードにあるように、神話や宗教は、不条理で受け入れられない事柄に直面した時に、物語を通して筋道を立てたり、意思や意味を見出して、物事を呑み込みやすく補助してくれるもの。
宇宙人が、神が、地球が、天候が…柱が降ってきた理由を推測し合うものの、結局のところ、柱が誰にどうしてどうやってもたらされたか、わからない。「不条理」=「わからない」ことが、一番怖いから、わたしたちは日常のタガが外れた時に、何としてでも、「どうして?」の答えを出したいのに。科学も宗教も総動員して、色んなアプローチから、物事を人間の理解の領域に入れて、どうにか解釈したいのに。
「御柱様」と名付けて、表面上は日常を取り戻した中、山田が妻と一緒に柱へ旅立ったのは、妻の身に起きた新たな不条理に対して、そういう上辺だけの解釈ができなかったからじゃないのかな。だから、不条理の真っただ中へ旅立ったけど、皮肉にも周囲から見ると、「殉教者」のようにすら見える、っていう。
「アリの巣で遊ぶ」ような俯瞰の視点で、(危機的状況に陥らなければ緩慢な日常に埋もれて見えない)色々に解釈しようとする作業、つまり「現代の神話」を描くことが、必要なんだろう。
安易な日常への引き込みじゃなくて、自分たちを客観視しながら、何とか理解しようと、解釈しようと、もがき続けること。
今でもまだぐるぐると考えている…。これからも折に触れて思い返すと思う。