だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』

この映画は特に事前情報を入れたくなくて、予告編すらままならないまま本編を観た。というのも、「ウエストサイドストーリー」(と「エリザベート」)にはミュージカル原体験として深い思い入れがあって、中途半端な形で記憶の上塗りをしたくなかったから。

というわけで、満を持して観た本編…。まず良かったところ。

オリジナル版よりも街並みや市井の人達の出番が増え、彼ら自身もキャラクタライズされていたし、彼らがジェット・シャークスに向ける眼差しも描かれていて、ジェッツ・シャークス双方の街での立ち位置や関係性が把握しやすくなっていた。特にプエルトルコ系移民がアメリカでの暮らしへの期待を自虐を込めながら歌う「アメリカ」は、彼らだけではなく、人種の坩堝と化したマンハッタン全体のドリームが渦巻くようなスケール感になっていて面白かった。

アメリカ」はじめ、当然、ジェローム・ロビンスの振付が頭にこびりついているのだけど、要所要所でオリジナル版へのリスペクトもありながら素晴らしい踊り手たちがさらにハイテンポで踊り狂うのはやはり見応えがあった。それもバーンスタインの音楽があまりに天才的で、軸がぶれないからこそなんだろう。

最も大きな改変といえば、台詞が大量に補足され、ジェッツとシャークスの争いが単なる陣地取りではなく、人種の違いによる根深い軋轢と、それによる差別・分断によるものだとはっきり描かれていたこと(なんと脚本はトニー・クシュナー)。

それは歪み合うリフやベルナルドだけでなく、これまで夢みがちに描かれてきたトニーとマリアにも影を落とし、二人のわかりあえなさと相互理解の難しさも描かれていた。同じ移民でも異なる文化圏でそれぞれに苦労を経験していて、言葉だって違うわけで、愛で全てを解決できる甘っちょろい話ではない。とりわけ、シャークス側の言葉や文化の掘り下げは意識的にされていて、トニーがたどたどしいスペイン語でマリアに自分の気持ちを伝えようとするシーンは、わかりあえなさから一歩踏み出そうとする美しい場面になっていた(けどその代わりに、One Hand One Heartのマネキンを家族に見立てて…というシーンがごそっと消えた)。

取ってつけたような役周りだったチノが影の主役のようにスポットが当てられていたり、トニーが働く店の主人ドクは既に亡くなり、プエルトルコ移民の妻バレンティーナが店を引き継いでいるという設定に変わっていたのも、大きな変更点。このバレンティーナは、オリジナル版のアニタであるリタ・モレノが脅威的な若さで演じている。Somewhereはかつて悲劇を背負ったアニタと同じプエルトルコ系のヴァレンティーナのナンバーに変更され、オリジナル版から60年以上経ってもなおSomewhereに行き着けない世界を憂い、静かに祈りを捧げるようなシーンになっていた。ただし、これはその文脈を知っているからメタ的にグッとくるわけで、物語上彼女が歌う意味はさほど感じられない。(しかもその変更によりトニーの死のシーンのリプライズがSomewhereからTonightに変わってしまい、その後のトニーの葬列のシーンへの繋がりが弱まっている。)

さ、ここからは悪口でーす!

屈指の見せ場であるナンバー「マンボ」への入りがアニタのバンドチームへの声かけになっていて、目をひん剥いた。どういうこと??緩いナンバーからいきなりマンボに切り替わった途端、手をクロスし合いながら激しいダンスへと傾れ込むのが最高にかっこいいのに。見た瞬間はなんてだせぇんだ…と思考停止してしまったんだけど、観進めるうちに腑に落ちた。今回は、ミュージカルのお決まり事が通用するミュージカル映画として作ってなくて、音楽はあくまで表現方法の一つであって、映画的リアリズムとして筋を通すことを大前提に作ってるからだ、と。

体育館のダンスパーティで最初のナンバーが流れるのは司会者が演奏するバンドチームにQ出しするからだし(これはまだわかる)、曲調が一気に変わるのはアニタが「のれる曲をお願い!」とリクエストするからに過ぎない(理解はできるけどとんでもなくダサい)。

音楽はその場の状況やキャラクターの心情の変化によってフレキシブルに流れるもんだと思ってるわたしのようなミュージカルクラスタ的にはあまりに説明的でダサすぎるんだけど、根っこの考え方が違うからもうどうしようもない。

それはこの場面に限ったことじゃなくて、トニーがロマンティックに心情を吐露する「マリア」では、こいつ何歌ってんだ、と白い目で見つめたり、うるさい!とばかりに窓をピシャリと閉める人たちが描かれてるし、「クラプキ巡査」でも、こいつら頭やべえんじゃないか…みたいに彼らをあきれ顔で見つめる女性が登場する。

歌を歌うという一種のボケ(リアルからズレたもの)に対するツッコミ役、つまり、観客より先に「突然歌い出すとか変なのは重々わかってるんですけどミュージカルなんでw」と突っ込むエクスキューズを画面内に用意している。

映画的リアリズムを崩したくない、らしいけど、そもそもミュージカルって理屈の通らないもの、リアリズムを超えた何かを描ける表現手段であるはずで、それを取り扱いながらリアリズムを通そうとしても絶対捩れが生まれてしまうのは当たり前なのに、それを上手く擦り合わせようともせず、こんな姑息な手段でリメイクしたいミュージカルってなんなんですか???(煽り)

しかもそこまでミュージカルに対して神経質に向き合っている一方で、オリジナルの映画版には登場しなかった(舞台版だけにある)Somewhereのダンスシーンの曲が脈絡なくマリアの寝起きシーンでBGMとして流れてて、ミュージカル楽曲の文脈をまる無視する無神経さに、本当にミュージカルそのものには興味ないんだなって痛感した。なんでリメイクしたん?

オリジナル映画版と舞台版でも曲の入りどころやシチュエーションが違う(クラプキとかも)ように、新しい解釈があって全然いいけど、トニーとリフの銃の取り合いという盛り上がりもクソもない「Cool」は、ミュージカル的カタルシスが霧散していて、さすがにこれはないやろ‥と。ここまでして描くリアルって虚しいだけじゃないですか??

色々問題を起こしたらしいトニー役のアンセル・エルゴートが、トニーが前科者という設定になったことを差し引いても、あまりに人相が悪く、わたしの思うトニーじゃなかった。それもあってか、先にも書いたようにトニーとマリアのリアリティが増した一方で一目惚れ感が減っていて…。スピルバークは体育館での幻想のシーンを許さないし(あくまで舞台裏という物理的に特定できる現実世界)、ロミオとジュリエットに準拠した手と頬の触れ合いもなく、いきなりキスする。。わたしは二人の出会いをこの世で最も美しい出会いだと思ってるから、がっかりしてしまった。

マジでなんでスピルバーグがリメイクしたかったのかまるでわからんな…とインタビュー記事を読んでたらこんなくだりが。

スティーヴン・スピルバーグが明かす、『ウエスト・サイド・ストーリー』を現代に蘇らせた意義|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

「ミュージカルでは、会話をしている登場人物たちが一旦中断して歌って踊り、そしてまたストーリーを語るために会話をします。ミュージカルを観るということはある意味で、自分のなかのシニシズム(冷笑性)を取り去らないといけないということでもありますし、それによって多種多様なエンタテインメントを楽しむことができるのです。現代は、かつてないほどシニシズムにあふれていると感じています。」

まさにこれ↑に書いたツッコミ役やん。スピルバーグ自身がシニシズムを払拭できなくて、ああいう形でしか擦り合わせられなかったんだ、と納得したと共に、余計にリメイクした理由がわからなくなってしまった。

ま、でも、もはや映画・ミュージカル好きしか知らなかった作品を、素晴らしい楽曲・ダンスと共によみがえらせ、今の若い人たちに届けられただけでも良しとすべきなのかな…。(必死で自分を納得させようとする)

 

ちなみに、この後、『ウォーム・ボディーズ』というゾンビ×ロミオとジュリエットの映画を見たら、流ちょうに喋れないゾンビロミオの代わりに彼がかけるレコードが雄弁に心情を語ってて、こっちの方がよっぽどミュージカルやん!って思いました。