だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『リーマントリロジー』と『レオポルトシュタット』

またまた掘り出しメモシリーズ。

NTL『リーマントリロジー

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リーマン・ブラザーズ創始者、リーマン家の3兄弟がドイツからアメリカに渡り、2008年にリーマンショックが起きるまでの160年間をたった3人の演者+ピアノだけで描くえげつない芝居。ひょんなことからビジネスチャンスをつかみ、野心的に時代の流れを読み取ってビジネスで成功していくリーマン一族の家族史を通じて、経済史を一気にさらう一大叙事詩になっている。

元はイタリアで放送された9時間のラジオドラマだったらしい。まずもってその企画のセンスも抜群なのに、それを3幕物の220分の演劇(休憩×2込み)にするってすごくないですか。もうそのプロセスを考えるだけで天を仰いでしまう。(作:ステファノ・マッシーニ、翻案:ベン・パワー、演出:サム・メンデス

インスタレーションのような映像が背景にあり、その手前に、透明のキューブ上のセットが組まれている。この中だけがアクティングエリアになっていて、状況に応じて仮設盆に乗ったキューブが回転する。

冒頭は小さな衣料店を営み始める3兄弟しかほぼ登場しない。ラジオドラマを元にしていることもあってか、単なる芝居というよりも語りのイメージに近く、3人の役者が兄弟それぞれに割り当てられているものの、地の文まで3人に割り振られていて、それをそっくり演じるというよりはその人物を語ることで形作っていく。ちょっと文楽を思い出した。義太夫人形遣いがセットになっているようなイメージ。その役そのものでありながら、時にはその役を見守るような視線を送るような。やがて、ビジネスの拡大やライフステージの変化で登場人物が増え始めると、最小限の小道具のみで、3人が入れ代わり立ち代わり複数の役を演じ分ける。様々な時にはラビに、時には妻や子供に、といったように。膨大な台詞と段取りをこなす役者さん(アダム・ゴドリー、サイモン・ラッセル・ビール、ベン・マイルズ)にはただただ感服するしかない。

カード遊び、競馬、ツイストなどのモチーフは、ウィットに富んで美しく、綱渡りの男の行く末は簡単に想像できるけど、それでもその美しいイメージの響き合いに震えてしまう。需要と供給に沿ったシンプルなモノとカネのやり取りが、やがて形のない株式へと変わり、時代の流れを読むどころか、金を生み出すために社会構造まで変えていく。

ユダヤ教の儀式、年老いて時代から取りこぼされそうになった時に見る悪夢は形を変えながらリフレインする。どんどん肥大し続けて止めようがなくなってしまった事業は拡大せざるをえず、ついには、家族の弔いさえ疎かになってしまう虚しさときたら。リフレインが止まり、人間性が消えていく。

リーマンショックによる世界経済の破綻をユダヤ教の儀式で弔うシーンにはガツンと一撃をくらった。それでも金を高く高く積み上げて世界はどこへ向かうんだろう。バベルの塔は崩れるしかないのに。

NTL『レオポルトシュタット』

トム・ストッパードの半自伝的戯曲。演出は、パトリック・マーバー。NTLの情報解禁時から注目していたら、あれよあれよという間に日本版の上演が決まり…。結局日本版は観られていないので、こちらが初見。
ウィーンに住むとあるユダヤ系一家の半世紀を、1899年、1900年、1924年、1938年、1955年5つのポイントで辿る。

家族の会話劇といえば演劇の十八番だけど、『ファンホーム』や『アンサンディ 炎』を観たあたりから、親と子って最も近い間柄なのに、お互いの半生を知らない皮肉な関係なのだな、ということに遅ればせながら気づき、親の半生を子がたどる話やファミリーツリーものを演劇で扱う面白さもしみじみと感じるようになった(リーマン・トリロジーもそうだけど)。本来交錯しないはずの人たちの邂逅や、大人役と子役が同時に出るとか、演劇ならではの「同じ板の上」になんでも乗ってしまうマジックが発揮できる格好の題材でもあるから。

この作品も御多分に洩れず、子供が生まれ、成長し、親となり、やがて老いていく人の営みを、役者が演じ分け、時にキャストを替えながら紡いでいく。ごくごくシンプルな1シチュエーションの邸宅のセットに、時代が遷移する時だけ、当時のウィーンの街並みやユダヤの人たちの写真がスクリーンに投影されて、物語が進む。

幕開けは、1899年のクリスマス。一家が集まり子供たちは賑やかに走り回り大人たちはあちこちで語り合っていて、字幕を追うのも難しいぐらい舞台いっぱいにさんざめいている。それでももうこの世界は失われてしまって、死んでいると感じさせるのはなぜだろう。
会話の中にフランツ・ヨーゼフの名も挙がって、『エリザベート』とリンクさせることもできた。ハプスブルク帝国多民族国家として多様な国民に権利を与えてはいるけど、実際にはユダヤ人差別が横行する「HASS」の世界を別サイドから眺めているような感覚に陥る。次に遷移したポイントでは、もうハプスブルクは滅び、第一次世界大戦敗戦後。この時代のドイツは「バビロンベルリン」辺りになるんだろうけど、オーストリアの行く末はそういえば自分の知識からは抜け落ちていた。ドイツとの併合、そしてドイツと同じくナチの煽りを受け、当たり前の日常が少しずつ変容していき、たわいない会話にも不穏な影が落ちる。やがて強制退去を迎えるシーンのおぞましさは、見ていてかなり辛くなってしまった。

1955年、ユダヤのルーツを知ったもののイギリス人としての自認を持つレオ、アメリカで長く暮らすローザ、ウィーンで命からがら生き延びたナータンの3人が再会する。三者三様の人生を歩んでいて、レオはウィーンでの生活の記憶はなく、ホロコーストに対しても他人事の意見しか出てこない。ローザは第二次世界大戦中、連合国側が難民を受け入れなかった事実を語る。辛い歴史の真ん中にいたナータンが強制退去のあの日を語り、レオの指に残る傷痕を指摘すると、レオの脳裏にあの日が蘇る。変わらず座標として記憶にも残り続けた、あやとりにつけた三つの印。

そして、ローザが自ら書いた家系図を読み上げる。家系図は死の積み重ねでもあるわけだけど、そのピリオドが「ダッハウ」や「アウシュビッツ」の固有名詞で語られる恐ろしさ。舞台上で描かれなかった膨大な死をいわば「ナレ死」で処理する形になっている。でも、私たちはそれがいかに悲惨で不条理な死だったか、知識と想像力を総動員して理解することができる。というか、理解しなければならない。3人の後ろには家族たちが1枚絵に収まっている。静かに死のとばりが下りて、幕。