だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『ノートルダムの鐘』東京公演と野中万寿夫様のフロローと共に私の夏が終わった話。

4月頭に京都劇場で観た『ノートルダムの鐘』と野中フロロー沼に落ちた話(沼という言葉はあまり好きではないんだけど、これはもう沼としかいいようがない)はここに書いたとおり。

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その後、各国版動画を集めたりなどもしながら、作品愛を育んできました。

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そして、ついに5/14、東京公演開幕!!

東京への長期出張期間と奇跡的に重なり、なけなしの休みは、ほぼ劇場徘徊に消えた。

結果、5月に2回、6月に1回、7月に1回観劇。7月分は別記事に回すため、最初の3回分の話。

カジモド=山下さん3回、フロロー=野中さん3回、エスメラルダ=松山さん3回、

フィーバス=光田さん2回、加藤さん1回、クロパン=吉賀さん2回、白石さん1回 

でした。

ちなみに、京都は千穐楽付近で一気に見たので、プリンシパルもカジモド以外はシングル、アンサンブルチームも同じ。

東京初見では、アンサンブルチームがガラリと変わり、正直、京都の方が良かった…という印象を抱いたものの、その後、何パターンか見て、岩城フロリカ、貞松ジェアンが好きだなぁとか平良さんはやっぱりいてほしいとか、武藤フレデリックが華があって思わず目を引く…などなどの気づきがあった。

第3のカジモド 山下さん

カジモドは、京都で飯田さん、寺元さんと観てきて3人目となる山下さん。偶然にも3回全て山下さんでした。

あどけない少年らしい笑顔(鶴松くんに似てません?!)と庇護欲をくすぐるような雰囲気を纏っていて、それに絆されてか京都で観た時よりフロローのあたりも柔らかく、もしかしたらこのまま騙し騙しやり過ごせたかもしれない二人の関係性(異様な支配関係であるのは否めないけど)が徐々に歯車が狂い、悲劇に突き進んでいくやるせなさを強く感じた。

求心力の強い飯田さんだと「石になろう」以降、物語を乗っ取るような張り詰めた緊張感と凄みで石像たちを率いて、物語の目が一気にフロローからカジモドへ動く印象がある一方で、山下さんだと「石になろう」は憐憫の方が強く、フィナーレの鉛のシーンも石像たちがカジモドを放っておけずなんとか彼の力になろうと自ら集まり力を寄せているニュアンスに見えて好きだった。柵越えで母のフロリカ(厳密にはフロリカそのものではなく曖昧な存在だけど)と邂逅して、フロリカが勇気を与えるように頷くあの一瞬にも親子の情景が見て取れて、めちゃくちゃ良い。

悲劇の先におぞましさが見える飯田さんも、残酷な運命に飲み込まれる幼気な山下さんもそれぞれ違った良さがあって、どちらのバージョンも観れてよかったと心底感じた。

山下カジモド、かなり推してます!!おススメです!!

怯えながら、傲慢の鎧を着る野中フロロー

5・6月は全て山下カジモド×野中フロローの組み合わせで、さっきも書いたように、山下カジモドの屈託なさがフロローまで絆してしまったのか、特に前半2回は、京都で観てきたフロローよりもカジモドに対しては柔らかく持続可能な関係性に見えて、それだけに後半の悲劇性が加速した。

エスメラルダに対しては、若かりし頃、フロリカに対して抱いてしまった抑制できない欲求が、いくら年齢を重ねて立場が変わろうが、当時のまま発露してしまう心身のアンバランスさが京都で観た時より際立っているように思えた。

そして、欲望の発露と同じように、野中フロローは怯え、狼狽もぶり返す。カジモドを抱いて街中を彷徨う時も、フロリカやエスメラルダに欲望を言い当てられた時も、トプシーターヴィーで民衆たちに揶揄された時も、フィーバスを刺した後も、まさに今火炙りにしようとするその刹那も、ずっと他人の視線に怯え、あるいは自分の変化に狼狽えている。

野中フロローの場合、ソトの世界を憎悪するのは、孤児だった彼ら兄弟がろくな目にあってこなかった恐怖から生まれたんだろうなと感じる。だからこそ、そんな世界から救ってくれたサンクチュアリ=ウチに異様なこだわりをみせるのは納得なんだけど、問題は救ってくれたのが誰かの無償の愛情によるものではなく、あくまで宗教という一つのシステム組み込まれたということ。

サンクチュアリを享受するにはそれに見合う対価(義務)が必要で、彼は純粋にそれを受け入れた。彼が神の道を邁進した原動力は、捨てられないため、サンクチュアリから追い出されないためで、その「道を外れると追い出されるかもしれない」怯えがどれだけ高い位につこうがずっと消えていないように見えた。

作品のメインテーマは「人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」だけれど、原詞だと、"What makes a monster and what makes a man?"で、やはりこちらのニュアンスの方が作品感を上手く表しているように思う。人間であろうが怪物であろうが、誰かの言葉や身振り、あるいは環境や時代が複雑に絡み合って作り出されるものなんですよね。だからカジモドやフロローらが人間なのか怪物なのか、というより、彼らがどういう世界に生まれ育ち、何をされ、どんな価値観を築き、彼ら自身は他者にどう振る舞ったか、が話の核だと思っている。(それもあって、前の感想にも書いたけど、エピローグがあまりに教科書的すぎて好きではなく…。人間/怪物が反転する墨塗りターンも要らない(そう単純なオチでもないよね‥)し、淡々とメインテーマを繰り返してお客さんに物語を放り投げ、彼らはまたローブを着てどこかの街へ流離っていくぐらいの温度感の方が好みだなーと思ってどうしても醒めてしまう。)

劇中で誰かが発した言葉や身振りがリフレインし次々にトレースされていく。フロローの偏執的な"サンクチュアリ思想"とそれに伴う"義務"も、彼がデュパン神父らから植え付けられた恐怖心(教会が唯一の居場所で、神の道から外れれば追い出される)がこびりつき、それをジェアンやカジモドやエスメラルダに振り写しているだけなんだろう、きっと(カジモドもまたエスメラルダを”花嫁のように”サンクチュアリの中で囲おうとする)。

かたやエスメラルダはウチのない根無草で、くびきにとらわれない"インフルエンサー"。どれだけ憎悪を向けられ酷い仕打ちを受けようが連鎖を断ち切り「わたしなら大丈夫」と困った人に愛を注ぎ手助けできる人間。

だからエスメラルダとフロローが唯一共鳴する「あなたがしてほしいと思うことをあなたも人にしてあげたらどうかしら」の言葉はあたかも通じ合っているようで、彼女の体現する無償の愛の世界と、フロローの実体験を伴う宗教観とは根本的に意味合いが違ってる。フロローはそんなこと気づかず彼女の言葉にハッとし自らの世界へ手招きするわけだけど…きっぱりと拒絶される。

それでも躍起になるのは、壮大な石のシンフォニーと共に主の教えを分かち導く聖職者の彼からすると、何の導きもなしに主と同じ言葉を紡ぎ、自ら言葉を体現し、他者の心や行動を変化させうるエスメラルダは、単に欲望を掻き立てる性的な魅力なだけでなく、宗教の枠組(フロローにとって第一のアイデンティティ、ウチ)を揺るがす脅威でもあり、二重の意味で"自分のもの"にする必要があるからなんだろうなと思った。

一方で、臆病な人ほど傲慢なのが人の常で(傲慢さについては前回の感想で少し書いた通り)、その傲慢さこそがフロローを数々の誘惑や恐怖から身と心を守ってきた鎧であって。彼がサンクチュアリを得るために失くしてきたもの(ジェアンがその象徴)に全く気づいていない…というか、自身の喪失として受け止めることを拒絶している(あれはあいつが弱かったら招いた結末なのだと、自分から切り離す)のもなんちゅー傲慢!って思うけど、そうしないと正気で生きられないくらい弱いからなんですよね。
野中フロローからはそんな臆病さ、臆病さゆえの傲慢さが感じられて、その揺れ動きが大好きでした。

中でも、フロローがエスメラルダに自身の欲望を言い当てられ狼狽えながらも自分自身の姿を直視できずに、ジェアンとカジモドの弱さ、罪に話をすり替えて"導こう"とする「二人で世界に立ち向かうのだ」が野中フロローの真骨頂だと思っていて。日によっては狼狽を通り越して泣きが入り混じる日もあって、その雁字搦めになってる姿が見てはいけないものを見てしまったと感じさせるくらい人間的で、ぎゅっと胸が締め付けられた。そして、その異様な昂ぶりからの冷ややかな「おやすみ…」にゾッとする。こんなに依存しているのに心が通っていなくて。

野中フロローがどう考えてもイケ散らかしすぎている

…と真面目に書いてみたものの、ええ…東京でも最っ高に素敵でしたー!!!

とはいえ、京都千穐楽ぶりに観た5月東京初見は、わたしの記憶力があまりにも悪すぎるせいで、え!このお姿とお声が…あの野中さんなの…(じゃなかったら誰)!?!というところからのスタート。

京都〜東京公演間は、野中さんの記憶をうまく辿れないまま概念として推してた可能性が高い。
それでもさすがに、東京初見あたりでようやく野中フロローが海馬に定着し始めて改めて把握できました。
野中フロロー、基本的にイケ散らかしています(前回の感想から何ら情報が更新されていない)。

おくるみを抱いて彷徨う姿もカジモド登場シーンのマント翻しも「地獄の炎」の一つ一つの動きも1幕終わりの階段上の姿も画になるし、火刑にかけられるエスメラルダの耳元で囁くのも、吐きかけられた唾を拭う姿すら素晴らしく映える。悪役が素敵じゃないと物語って面白くならないので、しっかり色悪をきめてくれるのはもう最高でしかない。カッコいいです…。

一方で、幕開け第一声の「クロード・フロロー師の説教」がこの作品の方向性を決めると思ってるんですが、初見時に(四季という先入観もあっただろうけど)そのトーンでいくんだ?!という驚きがあって。ミュージカルって観てるこっちも一段ギアを上げないといけない感覚があるんですけど、言葉が自然にすっと染み入ってきたんですよね。

色悪としてしっかり型に落とし込むところは落とし込んでくれながらも、悪役、ミュージカルに振り切ることなく、お芝居と歌を丁寧に結び合わせながら奥深いキャラクター像を紡いでいくこの両立っぷり、あまりに絶妙な塩梅すぎませんか。

この感覚は仁左衛門さんを観ている時の感覚に近くて、ここぞという瞬間は歌舞伎としてしっかり大きく派手に見せてぐっと求心力を高めながらも、そこに至るまではあくまで繊細にお芝居を紡いでいく、そんな緩急自在さを思い起こさせました。

しかも、これまでヤクザ、ガストン、スカーみたいな色濃い役を演じられてきて(生で観れたのはスカーのみでヤクザは映像で観たけどガストンは未見)、そこからあのフロロー像に行きつくって誰が想像できました‥?お芝居の振幅も年齢の重ね方も素晴らしすぎない?とますますリスペクトが強まった。いやもう本当に素晴らしいよね…(再度かみしめる)

6月末は初の前方サイド席で観劇。フロローの解像度が上がるかも?!と期待してたのに、蓋を開ければ、よく見るとめっちゃ垂れ目だ…可愛い…とか、耳大きいなーとか、意外とお手手がクリームパンっぽくない?!とか、御髪乱れてるけどそれがまた良い!みたいな、どうでもいい情報の切れ端が更新されただけだった(まじでしょーもない)。
でも、目のきらめきが美しかった。光なく死んだような、焦点の合わない、嘲りの、怯えた、蔑んだ、炎が宿るような、見据えた、すがるような、思い出がよぎる、色んな眼差しが…。

私なら大丈夫(じゃない)

千穐楽付近は野中さんがご降臨されるだろうという根拠のない自信があり、この感想も千穐楽後にまとめてあげようとしていたら、ご降臨されず…まさかの最後の感想が「お手手がクリームパン」になりました(最悪)。

今後上演が発表されておらず、野中さんのご年齢のことを考えると今回が見納めになる可能性も十分あるわけで、あまりにショックすぎて正直いまだに立ち直れてません。。。

でも、まさか今更こんな大好きな作品、キャラクター、役者さんが三位一体で押し寄せてくるとは思ってもいなくて、この4か月間、ずっとワタワタと混乱しながらも幸せな日々だったことは確か。本当に感謝しかないです。一日でも早く「わたしなら大丈夫!」と力強く前向ける日が来るよう精進します。

京都からの長期ご出演、本当におつかれさまでした。ゆっくりお休みいただき(もしかしたら既にお稽古なのかもですが‥)健やかに日々をお過ごしいただきたいというのが一番の願いです。ご降臨される際には万難を排して必ずや拝見しにまいります(次はジャファーかな…)。そして、またいつか『ノートルダムの鐘』の世界でもお目にかかれますように…!

 

最高に楽しい春夏だったなー!!