だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

『ノートルダムの鐘』と野中万寿夫様のフロローに目を剥いた話。

気になりながらも見逃してきた、劇団四季ノートルダムの鐘』。ぼちぼち見るかなーと軽い気持ちで予約、アニメ版は昔1回見たかも?くらいのノー予備知識で挑んだところ、あまりにおったまげすぎて、気づいたら1週間後の前楽と千秋楽を追いチケ&四季の会入会という恐ろしいハマり方をしました…。

社会人になってからは、仕事のこともあるし、たとえ好きな作品だとしてもリピートして大量摂取するというよりは静かに咀嚼して味わうことがほとんどだったので、この唐突な「もっとくれーっ!!」(楳図かずお)状態には自分でもびっくり。初見から千秋楽までの1週間は寝つきも悪くご飯も喉を通らず状態だったので、今は「これでやっと元の生活に戻れるな…(燃え尽きた眼差し)」byフロロー の気持ちです。

1日マチネ、8日ソワレ、9日マチネの3回のうち、9日のみ寺元カジモド、1、8日は飯田カジモド。あとは全て↓のキャストでした。

以下、めっちゃ長い感想。文中でよく白目を剥いてますが、誇張表現ではなく、割と本気で失神してる。

もし、未見でこれから観る可能性のある方(というか、5月から東京公演が始まるので絶対見て!!!)はまっさらな状態で観た方が絶対楽しめるので、読まれないことを強くお勧めします。

劇中劇構造/オープニングのすごさ

何にやられたって、まず劇中劇構造。ウィーン版『エリザベート』に心酔しているのも、死者による劇中劇の形を取っているのが大きい(宝塚版ではその構造が破綻してるし、東宝版はクソダサくなっている…)くらい大好物の仕掛けなので、わーこういう始まりなんだ!!とワクワク。しかも、単なる劇中劇ではなく…

振り香炉を持った男性を先頭に、ローブを纏ったキャストたちが聖歌を歌いながら登場。一部はコーラスに特化した聖歌隊クワイヤ)として、全編、装置の上部で、下界での出来事を見守り、時にリアクションしながら歌う(この贅沢な割り切り方もすごい)。

そういえば、教会の建築と美術は、文字が読めない人たち(そもそも印刷技術がなく活字メディアが少ない時代も)にもわかりやすく教義を伝える場であり、演劇もその伝達ツールの一つだったんだよね、と思い起こしながら観ていたんだけど、演出のスコット・シュワルツ氏のインタビューを後から読むと、これを「典礼劇」と呼ぶそうで、まさにこの典礼劇の形を模して作られているのがこの作品。世界観に一気に引き込まれた。

そして、それに続くのが約10分?の「ノートルダムの鐘」。クワイヤ以外のキャストたちが次々に劇中劇の世界へ飛び込んでいきながら、物語の背景、フロローの過去とカジモドの誕生、そしてカジモドがノートルダムに匿われる経緯を一気に見せる超絶展開。なんやこれ。天才やん。

極めつけは、曲の最後にようやく姿を見せるカジモド。普通の青年の姿から、母フロリカ役にこぶを背負わされ、フロロー役から赤ちゃんのおくるみになっていたボロを纏わされ、自ら顔を黒く汚し体を歪め劇世界に飛び込む。舞台上部中央にステンドグラスの丸窓、その左右にクワイヤ、かみしもの木組みの柱には石像たちが並んだ荘厳な寺院の装置に、ダウンしてきた吊りものの鐘をカジモドが打ち鳴らして、壮大なオープニングが終了する。

レ・ミゼラブル」の「独白」までのような、装置転換と人海戦術で舞台背景と人間関係を一気にさらって‥というのも大好きだけど、一杯飾りかつ劇中劇構造の中でこれをやり切る圧巻の構成・音楽・パフォーマンスはもう衝撃しかない。カジモド登場から鐘を鳴らすシークエンスに至ってはあまりにドラマチックすぎて、え、既に1本の舞台が出来上がっているレベルでは…?!と慄いた。

ただし、劇中劇を終えるエピローグ部分は正直お客さんへの投げかけ方があまりに直接すぎる気がしていて、「答えてほしい謎がある…」のリプライズで留めてよかったのでは?と思ったのが正直な感想。そこまでしなくても、ちゃんと自分ごととして届いていると思う。

アンサンブルの活躍

クワイヤ以外の芝居を構築していく17名のうち、役名がクレジットされてるキャラクターはカジモド、フロロー、エスメラルダ、フィーバス、クロパンの5名のみで、あとはアンサンブル表記。開演前にキャスト表を見ながら、これでどうやってやるんや…?と訝しんでいたけど、これこそがこの作品のミソ。

アンサンブルメンバーは、ローブを脱いで色んなキャラクターに変身するだけでなく、ローブのままカジモドの"友人"石像に扮することもあれば、ストーリーテラーとして物語ったり、時には、衣裳の介錯をしたりセットを運んだり、見立てでセットの一部になったりと、いわゆる小劇場的な多様な役割を担っていて、これが緩急やユーモアを生み、何より胸を打つ。

カジモドと会話する石像たちの活き活きとした声音と眼差しの優しさは、カジモドが生まれてからずっと暮らしてきた空間そのものと一心同体になっているような温もりを感じるし、「世界の頂上で」やカジモドとフィーバスが奇跡御殿に向かうところ、エスメラルダを火刑から救い出すくだりの、物語と一体化した彼らの存在は、今思い出しただけで泣けてくるくらい大好き。それに、だからこそ「石になろう」での彼らの”不在”とその喪失感が突き刺さる。

さっきもチラッと書いたように、この作品は、同じユゴー原作のレ・ミを思い起こす、人間の本質を突く壮大な話ではあるものの、レ・ミとは裏腹に時代は変遷せず場所も限定的。それこそレ・ミのようなグランドミュージカルとは真逆の、ほぼ一杯飾りのセットに典礼劇の形を取った劇中劇構造、そしてそれをアンサンブルの活躍で見せていくイマジネーション溢れる手法が、カジモドの住む小さな世界に寄り添うようでもあって、虜になった。

音楽と炎

もちろん音楽も素晴らしい。「陽ざしの中へ」とか「地獄の炎」「石になろう」のような、いわゆる聴かせる楽曲の素晴らしさはもちろん、このミュージカルの魅力は、「陽ざしの中へ」のフロローとカジモドの掛け合いからソロへの入り方とか「天国の光」から「地獄の炎」の流れだったり、CMでも使われてるテーマフレーズ、キリエレイソンのフレーズが人間の心に渦巻く清濁が目まぐるしく変わる度に絶えずリフレインし続けるような、細部に宿ってる。そして、それを紡ぐのが、クワイヤの美しい歌声(と、神の目のように降り注ぐ視線)であるというのも唯一無二。

話飛んで、エスメラルダの登場シーンの歌詞、衣裳、スカーフから生まれた「炎」のイメージがどんどん飛び火していくのもいい。火あぶりの暗示はもちろん、フロローの情欲や「地獄の炎」(⇔カジモドの「天国の光」)、鉛もだし、フィーバスが逡巡する時の松明の火に繋がってるのも好きで、一見チャラく見えるけど、戦地から戻った彼の空虚な心に明かりを点したのがエスメラルダだったんだってよくわかる。

フロローとカジモド

で、です。こんな魅力的なミュージカルの役柄がこの世に存在したの…?!と頭をぶん殴られるような衝撃を受けたのが、フロロー。一応ディズニーヴィランズの一員のはずが、ディズニー要素0だし、単にヴィランズやヒールと括るには語弊のある奥深い役で、影の主役は間違いなく彼(そもそもほぼ出ずっぱり)。

若かりし頃の回想シーンでは堅物ながら心の機微が感じ取れるけど、今では傲慢という鎧を身に着け一切の揺らぎを排除していて、「愛」や「導く」という自ら定めた宿命のためにカジモドを育てているものの、すっかり熱意は削がれていまや惰性になっているようにも見えるフロロー。

カジモドだけでなく、民衆に対してもろくに視線は注がれず、自分の姿すら鏡に映してないような精気のない眼差し(カジモドには鐘楼から生き生きとした人々の暮らしがつぶさに見えているけど、フロローは蛆虫どもにしか見えないし、見ようともしない)が、エスメラルダに出会って、皮肉にも活き活きとした炎を宿し、新しい世界を見てしまう。

聖職者の彼にとって異性に心惹かれ欲望を感じた時点でアウトだろうに、よりによってそれが最も蔑むべき“蛆虫"のジプシーであり、それだけで愛憎引き裂かれる思いなのに、さらには、かつてのフロリカの自分の欲望を見通すような言葉や”堕落した”弟の末路も蘇り…。以降、便宜上「情欲」と書いたりしてるけど、エスメラルダに対してそれだけに収まらない複雑な思いが入り混じり…妄執の日々が始まる。

カジモドを追ってノートルダムにやってきたエスメラルダが「あなたがして欲しいと思うことを他の人にしてあげるべき」とフロローを諭し、ハッとしたフロローが「まさに主も同じことを…」と返す、フロローにとって分岐点になるシーン。

初見では、彼女が下劣な存在ではなく自分が心動かされてよい存在だという安心の後付けを得たように見えたんだけど、2回目からはちょっと違って見えてきて。

孤児だった彼にとって、ジェアンやカジモド、エスメラルダを「安心な家の中で守る」(=彼にとってのサンクチュアリ)発想の根底がまさにその「自分がしてほしかったこと」で、彼にとってはそれが正しい愛の形だからこそ、その後エスメラルダに切り出すんだとわかり…。

とはいえ、エスメラルダに対しては下心ありありなわけで、かつてのフロリカのように、エスメラルダから鏡を差し出されて自分の姿、眼差しに初めて気づき、自分の中で沸き立つ欲望とそれが導く堕落の未来に狼狽えながらエスメラルダに憎悪をぶつける。

自分の信じる正しさ以外は許容できず、たとえ目の前に変化のチャンスが現れても拒絶し、変化をもたらしうる他者に憎悪を燃やす。

今回はエスメラルダが女性だからより複雑で「魔女狩り」的な側面が強くなってるけど、ジャベールにも似てるよね(かつてフロローをジャベール役者の川口竜也さんが演じていたのには納得しかないし、川口さんのジャベールは好きなので川口フロローも観てみたくなった)とも思うし、そんな人、現実世界にも溢れかえってる。

話それるけど、だからこそ『天使にラブ・ソングを』で、エゴが衝突しまくりだったデロリスと修道院長が、信仰や人種、思想の違いはあれど、お互いを認め合うシーンがあんなに美しく心に響くんだな…簡単なことではないからこそ。

カジモドの境遇も含めて、社会の権力構造や差別、不寛容、民族、国同士の問題などなど(ちょうど観劇した日が国際ロマデーに当たっていて色々感じるところもあった)、「いつか」で歌われるような現代にも通ずるテーマがこの作品の軸になってるのだけど、わたしは回を重ねるうちにフロローに肩入れするようになってしまった。

だって、ついに監獄に捕らえたエスメラルダの元にフロローがやってくるシーンで、初めておざなりにせず射抜くような眼差しで現れたのに、みるみる歯止めがきかなくなってエスメラルダに迫って言い放つ「愛してくれ…」や「熱い鉛なのだ!」が、情欲とか一括りにするにはあまりに悲痛すぎて。

傲慢の鎧を纏い心無い眼差しで自分を守ってきた彼が本当に「して欲しいこと」は、孤独から解き放たれて、こうやって誰かに熱烈に愛されることだったんだな…というのがひしひしと伝わり、寄り添いたくなる衝動に駆られた。

フロローはエスメラルダに狂わされてからカジモドへの依存度が強まって、自問自答の代わりにカジモドを相手にしているよう。彼女の死を目の当たりにした、空虚な「これでやっと元の生活に戻れるな…」も、憑き物が落ちただけじゃなく、眼光も消え、心のひだを守ることすらなくなった哀れな状態だった。振り絞るような「戻れるとも…いずれ分かる」もカジモドに向けて言うしかないんだよね。もしも自分に向き合ってしまったら孤独と喪失感で生きていられないから。

ところで、フロローがジャベールに似ているならば、ジャベールと裏表のような存在で、分岐点でちゃんと変化できたのがバルジャン(それもけして簡単なことではなく、フロローがついぞできなかった"Who am I?"の自問自答を常にし続ける)なわけだけど、フロローの裏表であるカジモドはどうだろう?

フロロー自身の振る舞いとフロローが語る聖アフロディージアスの話が重なって生まれた"サンクチュアリ"思想が、カジモドのエスメラルダへの独りよがりな願望にもトレースされてる。

フィーバスが奇跡御殿で、エスメラルダを自分の世界に引き入れようとした後、思い直して全てを捨ててジプシーの世界へ自ら身を投じることを決意した時のカジモドの衝撃と絶望。自分の知らない愛の形と、自分にはできない外の世界への旅…。

フロローが彼を歪んだ庇護下においていたのも事実だけど、頭をなでるとか手話もフロローから教わったものだろうし、同時に彼を育み、人格形成したのも間違いなくフロローなはずだったのに。「お前に感情がわかるのか」「悪人は罰を受けなければならない」をトレースして、やがてフロローを葬る。これは因果応報とか勧善懲悪で済ませられないよね…。

分岐点でフロローの支配下から抜け出した彼が選び取ったのは「親殺し」。本物の怪物になってしまったのはフロローの手から離れたこの瞬間でもあり、しかもその意志の源泉はフロローの教えというのは、なんて皮肉なんだろうか。

飯田カジモドの素晴らしさ

2/3回が飯田カジモドだったのですが、素晴らしくて…。まず、登場から劇中に入る時の鮮やかさ。身体への役の落とし込みが素晴らしく、カジモドの重心や体幹に一気に変貌する。

そして、現実世界でしわがれて不明瞭な声と言葉が、カジモドと石像たちだけのシーンになると、想像の翼にのって豊かにふくらみ飛翔していく演出自体がもう素晴らしいだけど、飯田さんの独特な太く柔らかい声が、まさにこの豊かに膨らんでいくという感覚にぴったりで。

それに、なんといっても「石になろう」や「フィナーレ」の求心力と凄み。飯田カジモドには根っこに朗らかさというか光みたいなものがあって(それこそ兄クロードの教えではなくジェアンから受け継いだ天性みたいなものかもしれない)それがとても好きなんだけど、”怪物”になってしまう時、まずその光が消えたような声音にゾッとした。それはジキルとハイドのような二面性とかそういうのではなくて、本当にただ”消えた”静かな怖さ。

対して、寺元カジモドはベビーフェイスでちょっとキャラ立った芝居。声がのびやかで歌は素晴らしいんだけど、残念ながら飯田カジモドで心震えた場面がことごとくさらっと流れてしまい…。これはもう好みの問題だと思うので…すみません。

そう思うと、飯田カジモド×野中フロローというどストライクなタッグで初見を観れてよかった。この二人でなければどんなに作品が良くてもリピートしていなかったと思う。

松山さんのエスメラルダも、男役のようなきりっとしたお顔立ちにキレのいいダンス、カジモドに向ける表情にも説得力があった。松山さん、加藤フィーバス、白石クロパンはやや母音法が強く、ちょっともたつく箇所はあったけど、飯田さん、野中さんの芝居の骨格がしっかりしているのもあり、全体的にはバランスが取れていた。

野中フロローがイケちらかしすぎている件

…とここまで真面目に書いてきたんですけど、2回目の幕間ツイートはこれなわけで。

まず冒頭、ロマンスグレーの祭服イケオジが爆誕して我が目を疑った。ただでさえオープニングの情報量と衝撃にクラクラしているのに、シュッとした佇まいや色気あるオーラ、激渋のお声、お芝居もあいまって、なんかもう…好き…!!(酸欠)ってなってた。早かったー。私がエスメラルダなら1幕時点でほいほい付いていってさっさと話終わってた可能性ある。この役、色気も必須ですよね…。

自分の年齢が上がるにつれ、イケオジ好きが鳴りを潜めてイケオジ追加枠は閉鎖(とは)してたんですけど、なんか一周回って圧倒的ホーム感を得ました。年度はじめに初心を取り戻せて良かったし(?)おかげさまで、今年度の心得決まりました。「原点回帰」。

色んな人の感想を見ていると、役者によってはかなりエキセントリックな作り方をしているらしく、それはそれで今後観に行って比較したい気持ちはあるけど、わたしは今回、野中さんの「普通さ」がものすごく腑に落ちた。清濁併せ持った、誰もがなり得る人間像(ただしイケオジ)。

四季的な声圧ドーンな朗々系のお声ではなく、練れた激渋声で、お芝居的にもミュージカルくささがなく、そういう意味での「普通さ」も最高だった。観劇2回目で、おや…よくよく観ると全編歌いまくってるぞ‥とびっくりしたんだけど、お芝居の延長線上になっていて歌を聞いているという感覚がなかったんだなと。とはいえ、初見は、あまりのカッコよさに気を失ってたシーンがあったようで、「…嫌か?」すら記憶から飛ぶという大失態をしでかしたので、そのせいかもしれない。

初見後、あまりのイケちらかしっぷりが信じられず、もしかしたら幻を見ていたのかもしれない…と思って2回目、両の目で確かめた時のツイートが↑なので(2回目・3回目は自分の煩悩と闘いながらなんとか意識を保てた)。具体的にどうイケちらかしているのかは言語化が非常に難しいので、各自確認してほしい。もう本当に素敵なんです‥。

あと、フロローのことを傲慢と書いてきたけど、エスメラルダに対してはちょいちょいフロリカにドギマギしてた青年時代のような顔ものぞかせて(めっちゃ可愛いね…)、そういう意味でも本当にただの人間なんですよね。人間の弱さを捨て、揺らぎない神の境地にたどり着きたかった彼にとってはそれが最大の呪いなんだけど…。

いや本当に、最高のミュージカルに出会えただけでなく、最高のキャラクターを最高のキャストと結び合わせてくれてありがとう…という感謝の気持ちでいっぱいだし、この日のチケット取った自分を褒めたい。

そう、もしかしたら…と思って後で家でパンフを調べたら、野中さんが、母と私の中で伝説のように語り継がれていたマイファーストスカー様だったというのもめちゃくちゃ感慨深くて、なおさら胸が熱くなってしまった。好きー!!

5月から東京開幕…!(白目)

というわけで、本当に本当に素晴らしかった…。

今は四季の素材供給量の少なさに頭を抱えながら、片っ端からスクショ取ったりして、なんとか飢えをしのいでる状態。このインタビューいいよね…。

東京公演は5/14開幕。休みがほぼない長期出張にドン被りしてますけど、這ってでも行く(執念)。ライフワークにしていきたい所存。

とはいえ、四季のしきたりがわからず、いつキャストが発表されるのかとか全くわからないし、そもそも野中さんは出演されるのだろうか…もし出なかったら…とそわそわして仕事が手に着かない日々を送ってます(ちゃんと仕事して―)。