だらだらノマド。

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『カレル・チャペック』『スカーレット・プリンセス』『反転するエンドロール』感想

10月観劇遠征のメモ。

 

劇団印象-indian elephant-『カレル・チャペック』@東京芸術劇場シアターウエス

劇団すらよく知らないレベルだったんだけど、チャペックに興味があったこともあり、なんとなく面白そうだなーと。劇団印象の「国家と芸術家」シリーズのラストを飾る作品らしい。

オーストリア=ハンガリー帝国が瓦解して共和国となったチェコスロバキアが舞台。国民的作家のカレル・チャペックと、彼を取り巻く家族や友人たちを通して、民主主義やナショナリズムの光と影を描く。

時折、ドイツ系の多いズデーデン地方でドイツ語教師を務めているという"謎の女"が現れる。ようやくハプスブルクから解放されて、母国の文化や言語を見直す機運が高まる中で、ドイツ語話者への風当たりの厳しさを嘆くのだけど、やがてドイツで先鋭化するナショナリズムと同調していく。
"謎の女"だけでなく、テーマを複眼的に捉えられるようにキャラクターが配置されている。言葉の力で民主主義を耕そうとするカレル。時代の変化に誰より先に気づき自分の殻に閉じこもる兄ヨゼフ。チェコ人としての”顔”を持つために軍人を続けざるを得ないユダヤ人のランゲル。チェコ語とフランス語を等価なものとして変換する翻訳家のヤルミラ。活き活きと自分の人生を生きて輝くオルガ。カリスマ性でチェコを率いる大統領マサリク。民主主義と芸術、民族主義排他主義、女性の権利、人種差別…。

他国への憎悪の裏返しでしか母国を愛することはできないのか。チェコ語特有の表現を愛おしみながらも、他国語で表現の引き出しを駆使して、その唯一無二性も楽しみながら単語を選んで翻訳するように、なぜ愛せないんだろうか。

カレルは時代を予見するような作品を次々に発表するも、気づけばファシズムの嵐が吹き荒れ、ズデーデン地方はドイツに割譲される。晩年の作品『山椒魚戦争』のオオサンショウウオたちの不気味な"水の足音"が劇中で何度も響く。
大統領とカレルの"足音"談義が印象的だったけど、終盤に杖をついておぼつかない足取りでチャペック家を訪れる老いた大統領が国の未来を予見させている。

"水の足音"に耳をそば立てながら、自らはいかに歩んでいけるか、きな臭い現代に訴えかける真摯な物語だった。ただ、複眼的視点で掬い上げようとするほど物語をまとめるのは難しくなり、シーンや台詞で良い箇所はたくさんあるんだけど、物語を推進していく大きな力は脚本、演出、芝居から感じられなかったのが残念。とはいえ、これまでの「国家と芸術家」シリーズはどれも気になるし、既に決まっている次回作も楽しみ。
(ちなみに、アフタートークショーでお見かけした鈴木アツトさんがいかにも優しげな風貌で、キャラクターたちからできるだけ掬い上げようとするお人柄を感じてしまった)

元々気になっていたチャペックにさらに興味がわいたので、まずは『白い病』の新訳版を読んでみようと思う。

『スカーレットプリンセス』@東京芸術劇場プレイハウス

元々2020年に上演が予定されていた、『桜姫東文章』をプルカレーテが翻案・演出した作品(あの年はイマーシブシアターの「サクラヒメ」、中村屋の「桜姫」が予定されていて、桜姫イヤーだった)。長期現場の狭間に組み込んだ遠征で、自分の体力の限界を感じてたんだけど、予想通り1幕はうつらうつらしてしまった。

1階下手寄りに仮設の花道が設けられ、上手前方には音楽チームが入っている。アクティングエリアから観客までの2mルールを守るため、相当座席が削られていた。キャラクターは性別を逆転して演じる。普通に男女でやってしまうと今やコンプラ最悪話なので、まぁ普通そうなるよね…。

歌舞伎版では、恋のために堕ちていく清玄や桜姫の退廃美と釣鐘権助と桜姫のいかがわしいエロスの世界が堪能できるけど、こちらはその趣は薄く、男性(釣鐘権助)はより暴力的に、女性(桜姫)はより自己主張なく、ひ弱に描かれ、支配関係が強調されていた。面白かったのは、歌舞伎の下座音楽やツケをアレンジしたようなキャラバン隊のユーモアあふれる音楽演奏と歌、そして効果音。このゆるめのアングラ感だからこそあの大団円フィナーレが自然と生み出されるんだな、と思った。

フィナーレは好きだった一方で、全身白塗りの出立ちや衣裳、身体表現は確かに変わってはいるけどそこまで突飛ではないし、それが物語を深く掘り下げたりスパイスになったりしてるとも思えず、むしろ通り一遍、筋をなぞっているだけ。歌舞伎という形式をプルカレーテ流に変換することに重きが置かれていて、この題材にさほど興味がないのかなという印象を受けた。いきなり名乗り始めるキャラとか、歌舞伎あるあるすぎて面白かったし、「歌舞伎の実験」としてはこれもありなのかもしれないけど。

とはいえ、「歌舞伎をこんなふうに大胆にアレンジするなんて‥!」という革新性を感じたわけではなく、コクーン歌舞伎の派生物のように見えてしまって…(なんなら串田さんと音楽の使い方とかもちょっと似てる)。で、それでいうと、コクーンのほうが狂言としっかり向き合ってるので、歌舞伎と串田さんの出合いって、本当に幸福だったんだな…とコクーン歌舞伎の有難みをひしひしと感じてしまった。

わたしがプルカレーテ作品をHDDに撮り溜めたまま観ておらず今回初観劇だったので、プルカレーテの方向性などを理解した上で見ていたらまた違ってたのかもですが。

ムケイチョウコク『反転するエンドロール』@space café ポレポレ坐

TL上で話題になっていたイマーシブシアター 。ちょうど↑2本の遠征を予定していたタイミングに追加公演のお知らせがあったので、急いでチケットを押さえた。登場人物チケットと傍観者チケットの2種類があり、わたしはもちろん後者を選択。
場所は、東中野のミニシアターに併設されたカフェ、ポレポレ坐。傍観者チケットの人は、『スリープノーモア』でいうところのアノニマスになるため、黒いケープを巻き、黒いマスクに付け替えて入場。全く予備知識を入れずに行ったので、会場が想像以上に狭くてびっくりした。中に入ると、カフェのテーブル&椅子の設えがそのまま活かされていて、そこにキャストや登場人物チケットの人たち(一目ではなかなか判別がつかない)が座って、話し込んでいる。この光景を目の当たりにして、泊まれる演劇の時のように、えらいとこ来てしもうた…と憂鬱な気分に。

簡易なパーテーションで奥の1/3のスペースは区切られている。傍観者は、この奥のスペースにも自由に行き来okとのことだったので、そそくさと逃げ込むように行ってみると、このスペースの照明はやや薄暗く、ムーディな雰囲気。こちらには、傍観者が座れるスペースが広めに取られているので、しばらく腰を落ち着けて観察することに。どうやらここは砂漠の街らしい。

占い師と思しき女性、映画監督、博打打ちの男に、お客さんが演じる亡命してきたカップル、子供を探す母親、記憶喪失の女性がいて、みんな何かを探しているらしい。このキャラの半分くらいは登場人物チケットの人たちが演じていて驚いた。例えば、泊まれる演劇だったら、確かにアドリブ劇に参加する必要性はあるものの、「旅人」のようなざっくり設定で、あとは自由に振る舞えるのだけど、この作品では、それぞれにガッツリキャラ設定と小道具が与えられていて、その通りに演じなければいけない。しかも、サシで完結する小さなやりとりだけでなく、みんなの前でアドリブで演じて物語を動かす役割もあり、見ているこっちが勝手に手に汗握ってしまった(確かに、登場人物チケットのお客さんはそういうの好きそうな人たちっぽいとお見受けした)。役者さん達もまた、お客さんのアドリブに的確に反応して物語を進めていく。

特にパーテーション奥の砂漠の街の世界は狭い空間なので、誰か一人をフォローするというよりかは、全体を巻き込んで物語が進んでいくことが多く、椅子に座りながらでも全体を楽しむことができる。

芝居の合間合間に時間の流れが歪むような動きや簡単なダンスが挟み込まれる。登場人物がパーテーションの壁を行き来するとき、“歪み”が発生するらしい。パーテーションの手前側へ行ってみると、こちらは映画の試写会前のパーティが開かれているよう。映画製作に関わるスタッフたちが集っていて、その中にはお客さんが演じるキャラクターもいる。そうなると、パーテーションの手前が現実世界で奥側が映画内世界、そして、キャラクターたちがそこを行き来しているらしいということがわかってくる。

じゃあ、キャラクターたちは二つの世界をどう棲み分けているのだろうと不思議に思って観察していると、例えば、新人タレントを引き連れてパーティーにやってきた芸能事務所の社長が映画内世界では元マフィアになり、新人タレントたちのプロフィールが亡命者たちを救うIDに変わる。

この狭い、そして何の変哲もないカフェスペースを、ただパーテーションで区切るだけで、全く異なる二つの世界を生み、そこを往来するだけで、二つの世界が捩れ、キャラクターも変わる。なんて面白いんだ。

登場人物チケットを持つ人はキャストとやり取りすることで、物語に没入し、物語を推進できる。ただし、その動きはキャストとのやりとりの中で決められ自由に世界を往来することは叶わない。

一方、傍観者は物語に関わることはできないものの世界の捩れを目の当たりにすることができる。やがて、映画内世界のキャラクターたちは自分達がシナリオに書かれた存在であること、望まない結末を迎えることを知る。映画の結末を変えられるか、現実世界での葛藤が描かれる。どうやら傍観者の私たちは過去に撮られた映画の中の“探しものが見つからないまま彷徨い続ける“浮かばれない幽霊のような存在らしい。物語が大団円を迎える中、わたしたち傍観者はキャラクターたちに手を取られて、踊る。ようやく成仏できたような祝福されるようなひとときになる。…冷静に考えると、黒いマントを羽織って踊る怪しげな集団なんだけど…。

正直、パーテーションが無くなってから大団円に向かうくだりは、長すぎかつ説明調でややだれてしまった部分はあったものの、そこに至るまでの面白さには、場所の条件が悪くても、工夫次第でここまで魅せられるんだ、と衝撃を受けた。役者さんたちがみんな達者な人たち(経験豊かで役者だけでなく演出経験がある人も)だからこそできる企画なんだろうなとも。今までに経験したことのないイマ-シブシアターのバリエーションだったので、新たな魅力に触れられて勉強になったし、面白かった!