だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

弊社ゴシップ/10月よもやま。

今更ながらTwitterをやっています。ほぼ情報収集用、ブログにまとめる用のメモですが…。よかったらフォローをお願いします!

 
1001〜1003
仕事。
 
1004
『I am from Austria』を観る。
1005
ぼーっとする。
 
1006
プラネタリウム」を観る。

夜空の星々が電話交換手の操作する無数のジャックに重ね合わさるタイトルバックが綺麗。ナタリー・ポートマンとリリー=ローズ・デップが降霊術師の姉妹役。妹は、依頼者が再会を望む死者を自分の体に憑依させて対面させる能力を持つ。それこそ無数のジャックの中から発信者の望む相手を探し出し繋ぎ合わせる電話交換手のように。あるいは、本来、「見えないものを見せる」プラネタリウムのように。一方、霊能力のない姉は美貌を買われ、霊媒師役として映画女優デビューする。本物の霊媒師と表象としての霊媒師。心霊写真のフェイク加工を引き合いに出しながら、映画プロデューサーのコルベンは、自らが降霊術にかかる超私的な体験を、何の映像マジックもなしにフィルムに残そうとする。万人の欲望、願望を一手に引き受ける映画女優と、自分の欲望だけに先鋭化していくプロデューサーのすれ違い。もはや霊を呼んでいるのか、霊に呼ばれているのか…主客が混沌として狂気を増していく。そこに反ユダヤも便乗して、ユダヤ人のコルベンはとうとう失脚してしまう。「降霊術」「心霊写真」「映画」が絡むモチーフはドストライクだし、衣裳が滅茶苦茶可愛くて、絵は綺麗。ただオシャレ先行なのか、時代の香りみたいなものが漂って来なくて、薄かった。
 
1007
仕事。
 
1008
仕事。暇すぎて色々情報収集をしていたら、おばけやしきブログに行きつき、冨安由真さんのインスタレーションと出会う。今自分が一番欲しているもの…人の気配が充満した不在、雄弁すぎる不在が、詰め込まれていた。(不在が詰め込まれるっておかしいけど)次回の個展はぜひ行きたい。

obakeyashikiblog.blogspot.com

www.artfrontgallery.com

演劇に絡めると、演劇って何の疑いもなく出演者とお客さんが存在するけど、まずそこ疑ってみたい気がする。人がいる、いないの緊張関係を積み上げていく舞台、気になる。…と思ったらこんなのもやっていたみたい。面白そう!

gorona1864.jimdo.com

1009
仕事。
 
1010
ようやく楽天モバイルに切り替える。薄給を強いられているので、各種サービスを楽天に集約して楽天経済圏で生きていこう作戦の一環。独身、30overのひとりっこという最強コンボなので、そろそろ本気でお金のことを考えていかねば‥と思っている。今年はとりあえず、つみたてNISAとiDeCoを始めた(もちろん楽天で)。今後も、本業で給料が増えることは望めないので、楽に稼げる副業(絶対あかんやつ)もできればいいんだけど。ちなみにブログを見ると「舞台見まくってるからお金ないんやんけ!」と思われそうですが、職業柄、自分で払っていないものも多い。(一種の福利厚生と思って人一倍観てます)逆に言うと趣味を趣味にできないほど薄給ということ。
仕事帰りに、見逃し続けていたTHE ROB CARLTONを観る。

kotobanomado.hatenablog.com

1011
ボディガード」を観る。

kotobanomado.hatenablog.com

1012
フェリー本を買った。
 
 今までノーマークだった中距離フェリーの新造船が可愛すぎることを知る。

setonaikaikisen.co.jp

ryobi-shodoshima.jp

「旅サラダ」の瑞風特集もあって、豪華列車、クルーズの情報収集をするも、高すぎて現実的ではない。唯一、手を出せるとすると、コスタネオロマンチカ…?とりあえず今はサンライズ出雲とフェリーに乗りたい。「八つ墓村」はチラ見。映像に役者がついていってない、という印象で、一気に興味をなくしてしまった。

 

1013

録画したほん怖を見ながらメイク。趣里ちゃんの無駄遣い感がすごい。庭劇団ペニノ+「ドレス・コード?」展に行く。

kotobanomado.hatenablog.com

1014〜1018
東京へ出張。大井町の発車ベルがいつの間にかスキンブルシャンクスに。毎朝通勤ラッシュにあたってしまって本当に辛かった。改札に入った瞬間から長蛇の列で、階段は将棋倒寸前。言葉も感情も他人への労りも、人間であることを一度忘れ出来る限りの無に擬態して行列に加わる。それでもやっぱり人間の心が残ってしまっていて、身動きの取れない車内で「人権とは…」(遠い目)と、思いを巡らせていた。
今回は3案件が上手く重なった出張で、そのうちの一つがスチール撮影。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、プロの力が結集して、とっておきの1枚に集約していく様に感動しきりだった。このスタジオで流れていた曲がめちゃくちゃ好みでShazamに見つけてもらう。Mammal Hands。このアルバム、ヤバい。
「SONG&DANCE」を観る。いじ婚が前振りになり、より尊く観える。

雰囲気の似た「フィーバー」と「ビッグススペンダー」を全く違った振付で見せた川崎悦子先生の手腕には脱帽。前者はスタイリッシュに後者は主導権を取り合う男女をコミカルに。ずんこさんとの「エリザベート」で、客席が笑いから涙に変わっていったのは忘れられない。

 帰りに「TOKYO2021」へ。

kotobanomado.hatenablog.com

1019
休み。部屋から一歩も出ず、ずっとごろごろしてた。多分みんなが言うごろごろよりエクストリームごろごろで、本当に何ひとつしなかった。辛すぎて放置していた辛ラーメンしか食糧がなくて誤魔化すべく思いっきり酢をぶっかけたら、強烈に胃が荒れた。

1020〜1024
仕事。今年は楽しい仕事ばかりで嬉しい。実家へ戻る。末期癌の叔父の体調が悪化していた。嚥下機能が衰え、食べれず痩せ細り、認知症なのか放射線治療の副作用なのか脳の萎縮が進み、せん妄状態で会話も成り立たないらしい。比較的長命の家系で昨年祖父を見送ったばかりなので忘れがちだけど、父母だって十分にリスクの高い世代。ふわふわしていたのに、一気に現実に叩き落とされた。

1025
既に終了した「ひろがる地図」展が面白かったらしいことを知る。特に演劇クエストというのがめちゃくちゃ楽しそうで、我慢しきれず、配布されていた「冒険の書」をゲット!展示会後も使えるらしく、東京出張時に使いたい。「いだてん」直近2回分をちゃんと見。スポーツパートと落語パートが見事に重なり合う回でした。落語と戦争が、人生を賭して鍛え上げてきた走りで結ばれてしまう皮肉。志ん生のいきいきとした語り口で、富九に、小松くんの魂が宿る。スポーツパートでは治五郎さんのストップウォッチが受け継がれたけど、志ん生は身一つでただ語りつぐ。七之助丈@圓生も最高でしたね…さすがクドカンのミューズ。「スマホを落としただけなのに」も観た。
 「search」と同時期にやっていて気になっていた映画。猟奇的な犯人以外も男性陣が概ね気持ち悪すぎて、どんでん返しも、は??となり、期待したようなスマホならではの面白みがない。これなら「何者」の方がよっぽどスマホ映画な気がする。北川景子がメンチの切り方だけが堂に入っていて、ほぼ「呪怨」の伊藤美咲状態だった。ちなみに千葉雄大はほぼ千之助。夕方、近所を散歩。歩くことがこんなに贅沢なことだったのか、と気づかされる。田舎なので、道のどこを歩いても速度も歩き方も気が乗ればスキップだって、他人の迷惑や目を気にせず思いのまま。東京の通勤ラッシュの悪夢からやっと解放された気がした。

1026
「天気の子」を見る。

kotobanomado.hatenablog.com

1027
trans kobeへ行く。本当に行って良かった。
1028
仕事。

1029
ちょっとだけお邪魔した新入社員研修がめちゃくちゃ面白くて、新入社員よりむしろS先輩とわたしが一番はしゃいでいた。『ハリウッドゴシップ』を見る。

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1030
会議デー。新入社員の配属が決まった。また色々と最悪だった。新入社員はどうかめげないでほしい。思いが高まった挙句長文メールを送り付けて、キモい先輩になってしまった。

1031
頑張った案件のお疲れ様会でサムギョプサルを食べに行く。楽しい話をしたかったのに、3時間ずっと弊社のゴシップだった。前日の配属の話も、上にフィードバックした内容と真逆だったということが判明して、もはや人事のセンスのなさというよりプロパー社員の意見に耳を貸さないという会社の姿勢なんだな、と悟った。そりゃあ我々の上に対する不信感も昂じるわけです。他にも最近の酷い採用や異動によってやってきたヤバい社員の話だとか、上からの責任の押し付け、パワハラ、業務過多の黙殺などなど話題には事欠かない。私の火加減のせいで真っ黒焦げになったサムギョプサルを噛みしめながら、最終的に、みんな神妙な面持ちになった。 

宝塚雪組『ハリウッドゴシップ』@シアター・ドラマシティ 感想

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映画スターを志しながらもチャンスに恵まれないコンラッドは、これを最後にと、新人発掘を謳う大作映画のスクリーンテストに臨む。しかし主演に選ばれたのは今をときめく若手スター、ジェリー・クロフォード。新人発掘の謳い文句は単なる話題作りだったのだ。その事実を知ったコンラッドは、怒りに任せスタジオへ。だがそこで、彼は往年の大女優アマンダに見出される事となる。彼女はコンラッドに、スターになるための演技や身のこなし、更には、聴衆の目を惹きつける“秘策”をも伝授するという。そんなアマンダにはある思惑があった。それは彼女を踏み台にしてスターとなったかつての恋人、ジェリーへの復讐。やがて、スターの素養を身に付けたコンラッドは、アマンダと共に先の映画の制作発表会見へと乗り込んで行く。そこにはジェリーの新たなロマンスの相手と噂される無名のヒロイン、エステラの姿も。驚く彼らを前に、コンラッドはでっち上げの“ゴシップ”を披露し、悲願であったスターへの道を歩き始めるのだが……。 1920年代のハリウッドを彩るスキャンダラスな“ゴシップ”をモチーフに、虚構の街で夢を紡ぐ人々の光と闇をドラマティックに描く。

軸になるのは、梨花ますみさん演じる、サイレント映画の大女優アマンダ。序盤は「サンセット大通り」をなぞるように、彼女がコンラッド(彩風咲奈さん)の欲望渦巻くハリウッドへの水先案内人となる。ただし、アマンダは過去の夢から抜け出せないノーマとは違って、現実的。自らを踏み台にスターの座を手にしたジェリー(彩凪翔さん)への復讐を叶えるため、売れないエキストラ、コンラッドを利用する。

あらすじと併せてこう書くとめちゃくちゃ面白そうに見えるんですけど、実際にアマンダが出てくるのは1幕中盤までと2幕終盤のみ。1幕中盤の山場、コンラッドにスター教育を施した仕上げ部分から肩透かしが続く。せっかく「ハリウッドゴシップ」というくらいなので、マスコミを使ってのし上がる過程を見れるかと思ったら、マスコミを通したスター像が出てくるのは、ほぼ冒頭のジェリーだけ。コンラッドについてもスターの虚像と実像を二重うつしにしながら乖離を描いていかないと面白くないし、この脚本じゃただの感じ悪いサイコパス野郎にしか見えないんですよね…(もちろん演技力の問題も大いにある)。ほぼモブ扱いだったマスコミ側も一枚岩じゃなくて、映画製作、スターエージェントサイドとの駆け引きだったり、あるいは共犯関係みたいなものがあればもっとスリリングだったと思う。装置と世界観が全く統一できてないのが惜しいけど、マスコミによるスター像を映し出すモノクロ映像(奥秀太郎さん)が時代感を高めていた。

薬漬けのジェリーなんてまだまだ小粒で、アマンダこそがハリウッドの光と闇を体現できる、大スター。のはずが、ハリウッドの光と闇といいながら、クスリ関係や大恐慌による終焉も唐突で、欲望はさらりとひと撫で程度。 2幕終盤のアマンダとコンラッドの対峙と決別は過程を描きこんでこそ良いシーンになると思うのですが。かといって、エステラとの恋愛が描かれるわけでも、コンラッドの葛藤が描かれるわけでもなくて。田淵先生、いつもモチーフ設定は面白いのに、その後の書き込みが圧倒的に弱い。

たしかに冒頭から尖ってはいたが、それにしてもコンラッドが天狗になるスピードが速すぎて、何を考えているかまるでわからない。エステラやジェリーに対する態度もコロコロと変わり、サイコパス疑惑浮上。ハリウッドに毒される、身の丈に追いつかないというより、元から相当ヤバいやつなのでは。自主映画も絶対うまく行かなさそうな気がした。正直に言えば、彩風さんのスターオーラが乏しく、芝居も本人が入り込もうとしているのは痛いほど伝わってくるのに、求心力のないまま上滑っていく。少なくとも大劇場で芝居をしている時はここまで酷く見えたことはなかったので、受けの芝居、引っ張る芝居の違いとか、真ん中に立つことの難しさを感じる。これがバウホールではなくドラマシティであること、次期トップの主演作ということに危機感を覚えるけど、最近、宝塚の魅力や宝塚らしさは、舞台機構とメイクで概ねカバーできると思っているので、大劇場に立てば何とかなるのでしょう。エステラの潤花さんはヒロイン然としていて頼もしい。守備範囲広く娘役から女役までできそうな雰囲気を持っている。裏声が極端に弱いのが玉に瑕だけど、芝居声が良く、ダンスも軽やか。

劇中からずば抜けたダンス力で目立っていた縣千さん。フィナーレの黒燕尾で踊る姿に度肝を抜かれた。

男役のために生まれたかのような恵まれた顔立ちと体格。下級生ながらすっかり黒燕尾も板につき、いかにも端正なスターさんなのに、踊れば明らかに「規格外」。遠慮も忖度もなしに、取り憑かれたように躍り狂う。このシーンだけで「ハリウッド・ゴシップ」が名作に変わった。

TOKYO2021へ。

出張帰りに「TOKYO2021」へ。
ちょうどフェスティバルトーキョーが始まった頃に学生だった私はPort Bがめちゃめちゃ気になっていた。当時、自分の知る「演劇」に当てはまらなかったから。結局行けなかったんだけど、それからも頭の片隅にはあって、たまーに調べてた。そしたらなんと10年前のフェスティバルトーキョーで初演した「個室都市東京」を「TOKYO2021」で再演しているという情報が。うまいこと出張が入ったので、塩田千春展も捨てがたかったけど、こちらに行くことにした。東京駅からすぐの(迷いまくったので30分かかったけど)戸田建設本社ビルでの展示。建て替えが決まっているので、思う存分に壊し、改造して、空間自体がめちゃくちゃ面白いことになっていた。
un/real engine ―― 慰霊のエンジニアリング
「災害」と「祝祭」を繰り返してきたこの国の歴史の中で、文化や科学は新たな想像力や表現、技術を生み出してきました。本展ではその営みを「慰霊のエンジニアリング(engineering of mourning)」と名付け、その系譜の一部として日本現代美術史を再構成します。情報社会化がはじまった1970年代を起点に、日本現代美術がいかに同時代の文化やテクノロジーを取り入れ、「シミュレーター」として様々な災害記憶をヴァーチャル化し、unrealな領域で作り変え、投企してきたのか、その歩みをたどってゆきます。
きっと人類の歴史そのものが「災害」と「祝祭」の繰り返しなんだろうけど、中でも日本の経済成長を語る上でこの二つは切っても切り離せず、今度は東日本大震災を経て、東京オリンピック大阪万博をねじこみ「夢をもう一度」と目論んでいるわけですが。

site A 災害の国の方は、震災犠牲者の行動をデジタルアーカイブ化した渡邉英徳さんの「忘れない」、地震シミュレーションを物語に落とし込んだ宇川直宏さんのA Series of Interpreted Catharsis episode 2 - earthquakeのような災害そのものと強く結びついた作品から、飴屋法水さんのパフォーマンス、大山顕さんの団地写真まで、盛り沢山。
そして、奥に、Port Bの個室都市東京。膨大に並べられた一般人のDVDジャケットから自由に選び取って、ネットカフェ風の視聴スペースに持ち込む。約5分弱、見知らぬ誰かのインタビュー映像を見る。プライベートなことから、「日本は豊かな国ですか?」「戦争は起こると思いますか?」「風俗で働く女性をどう思いますか?」まで、前後の繋がりもない機械的なインタビューにひたすら答える見知らぬおじさん。たまたま選んだ全く見知らぬおじさんなのに、たった5分弱で、もしかしたらその人の友達ですら知らない、その人の人生観や考え方を知ってしまう。映像で、ほんのつかの間、一方的に、しかも一人で黙々と見るだけなのに、一期一会の出会いだったような気がして、呆然。胸が痛いのは、これが2009年の映像だということで、この人達はまだ東日本大震災も知らず、世界情勢の変節も知らない。視聴後、site Bの隠れ展示へと繋がる避難マップを受け取れる。
site B 祝祭の国は、祝祭とだけあってsite Aより色鮮やかで明るい雰囲気。

クラブ規制法を揶揄したHOT BEADSが面白かった。ターンテーブルをきゅっきゅ回した時だけ、静止した映像の人物が再生、逆再生でぎこちなく動き、踊らせられる。あとは、あえて祝祭の方にある、カタルシスの岸辺かな。データの瓦礫。VRは並んでいたので体験してない。ぐるっと回った後、Port Bの避難マップのゴール地点にたどり着くと、先ほど見たDVDからピックアップされた数名の2019年版インタビューが。質問は全く同じ。知らない人だけど、今も東京で生きて思考している。グッときてしまった。
 
驚くべきは、この展示、めちゃくちゃ内容が濃いのに、なんと入場料無料。建て替え後のビルにアートスペースを設けるとのことで、そのプロモーションも兼ねているんでしょうが、それにしても無料とは信じられないクオリティ…戸田建設すごい…。ハンドアウトを切らしたり、無料なのに事前登録がいったり(会場での記入もOKなのにHPには記載されてない)HPの情報量がほぼなかったり、運営的には微妙だったけど、無料だから仕方ない。Trans- KOBEと共に行けて本当に良かった展示だったし、Port Bはこれから細目にチェックしていこうと思った。

Trans- KOBEが最高だった話。

最近イマーシブシアターにハマっていて、その関連で興味を持ったアートイベント。

trans-kobe.jp

関連企画は用意されているものの、やなぎみわさんとグレゴール・シュナイダーの2名だけにフィーチャーした超コアなアートイベント。しかも、やなぎさんは3日間限りの舞台公演を手掛けているので、2か月近い会期中に楽しめるのはシュナイダーの作品のみ。シュナイダーの作品は神戸市内に12ポイント散りばめられている。中には、日時限定公開だったり整理券制の作品もいくつかあって、回りやすいものから2日に分けて行くかな…なんて思ってたら、日時限定パフォーマンスも含め1日で全て回れるというディレクターズツアーの存在を知って、速攻予約した。

以下、振り返り。興味を持たれている方には、ネタバレは極力避けて(ここから先は読まないほうが良いです)、「少々無理してでも行ったほうが良い、最高」とだけお伝えしておきます。~11/10まで。ディレクターズツアー第2弾が11/9に決定したようなので、全部制覇したい方はそちらで巡るのがベスト。(というか、そうでもしない限り1日ではまわれない)ディレクターの林さんやスタッフさんが解説・案内してくれ、お弁当も1日乗車パスもついて3000円!(まわしものではない)ちなみに、ディレクターズツアーでは、第3留→第1・2から始まり、あとは順番通りだったと思う。後になって思うと、想像以上に留同士がリンクしているので巡る順番も大事なので、なるべく順番通りに行けるこのツアー、かなり貴重だった。

 

一留 デュオドーム 《死にゆくこと、生きながらえること》

JR 神戸駅の南口を出てエスカレータを下ると、吹き抜けの広場「デュオドーム」に出る。ここはTRANS- の玄関口であり、シュナイダーの《12の道行き》の最初の留 (りゅう) となる。特設ブース内に招かれた神戸市内に住む老人たちは、高精度の3Dスキャナで撮影され、3Dアバターへと変身(会期中に総勢1,000人が参加予定)。空蝉のひとがたはデジタル世界のなかを亡霊のように彷徨い、12番目となる最後の留で姿を見せる。生と死、内と外、現在と過去が不意に入れ替わるシュナイダー作品の旅は、ここから始まる。

原則、3Dスキャンできるのは、75歳以上の人のよう。第12留のための素材集め。

第二留:デュオドーム 《ドッペルゲンガー

デュオドームに鎮座する黒い構造物が2番目の留の目印となる。そこでは二人の人物が床に座り、同じ動作を単調に繰り返している。よく見れば、その二人とそっくりな人物がその向こうにいて、やはり同じ動作を繰り返している。鑑賞者はまるで鏡の前に立っているかのような感覚に襲われることだろう。しかし彼らの背景に目を転じれば、映り込んでいるのはここではないどこか。自分ではない他人の姿も見える。交差する「こちら側」と「あちら側」。その交差点を探すのもこの旅のミッションとなる。

黒い構造物の中にはスクリーンが設えられてあり、そこに映った和室には、こちら向きに数名の女性が座っている。時間になるとスクリーン前を横切るように若い男性が現れて、スクリーン前に用意された黒い座布団に座る。同時に、スクリーンの向こう側にもまったく同じ人が現れて、向かい合わせに座り、同じ仕草をし始める。過去映像にこちらが合わせている?こちら向きにカメラが設置されているから、実は最先端カメラと特殊な座布団で男性の映像だけを反転させてる?などと思っていると、だんだんとズレや差異が際立ってくる。そしてリアルタイムな鑑賞者の動き(例えば、子供が手を振るなど)に合わせて、スクリーンの向こう側のドッペルゲンガーや後ろに鎮座する人たちまでもが、身振りや表情で反応することがわかってくる。ドッペルゲンガーと聞くと、本来どちらかしか存在してはならない、つまり片方は偽物で本物に成り代わろうとしているという不吉な予感がする(「us」のように)。そして、リアルに今目の前に存在している男性が「本物側」だと疑わないから、向こう側にいる人を過去の映像なり、こちらの映像を転送して生み出されたドッペルゲンガーとみなしてしまう。でも、よくよく見てると、この男性たちはどちらも今、リアルに存在していて、ただ、あちらとこちらで対に動いていることがわかってくる。実は男性たちは双子。仕掛けは単純なんですけど、この知覚の変化がめちゃくちゃ面白かった…。

第三留:旧兵庫県立健康生活科学研究所 《消えた現実》

昭和43年(1968年)に兵庫県の衛生研究所として設立された地下1階、地上7階建のビルを作品化した大型インスタレーション。来場者は、感染症や食品、飲料水などのための検査室や研究室の間を歩きながら、見えない恐怖を体感する。廃墟となったビルの入口に足を踏み入れた瞬間に私たちは自分の居場所を見失い、現実と虚構を行き来しながらいくつもの世界を通り抜けて、また日常へと戻っていく。シュナイダーの真骨頂が発揮された同作は、TRANS- 期間中の限定公開となる。

 一番大掛かりな作品。入口で2人組に分けられ、建物の5〜7階と屋上を順に巡っていく。まず真っ暗な地下からエレベーターで5階に上がると、SF映画に迷い込んだかのような、真っ白な世界。遠近感が狂い、頭くらくら。バイオハザード掲示だけが目を引く。 6階に上がると、老朽化した壁はそのままで、研究道具が過剰に散乱している。5階のむしろ病的なまでの清潔感から真逆。7階は動物の実験室だったらしい。道具などはなくて、ただいくつも部屋があるだけなのに、6階で過剰なほど道具を見たので、想像力が働く。フロアごとに息苦しさやおぞましさみたいなものはずっと付き纏うけれど、それは少しずつ形を変えて、働いていた人達や業務のイメージも変わってくる。ドアに残された張り紙を見て、ようやく人間性に触れられた気がして、ほっとした。

屋上に出ると、カラフルな物体が。これまでの閉塞感が一気に解かれ、まるで遊具のような物体の中に思わず入ってみると、実験動物の檻や…。色を塗るだけで、おぞましさが容易に吹き飛んでしまう。と思ったら、反対側にはリアル焼却炉があって、ギャップが…。

第四留:メトロこうべ 《条件付け》

高速神戸駅と新開地駅を結ぶ地下街「メトロこうべ」内に設置されるのは、100メートル以上も続く地下通路とシンクロするかのように、いつ終わるとも知れない時空間を体験できる通路上の構造物。浴槽も蛇口もなく、金具だけが残された、工事中のように見える浴室だが、シュナイダーの手にかかれば、ただの部屋ではなくなる。見慣れた世界と架空の空間との交錯、あるいは変換。ここがどこなのか、まるでわからなくなる。

 反復する浴室。何度部屋を出ても抜け出せない悪夢のような時間。

第5留:神戸アートビレッジセンターKAVCホール(2F) 《自己消費される生産》

神戸アートビレッジセンター2Fのホールでは、2004年にアーティストが手がけた部屋で双子がパフォーマンスをした《シュナイダー家》の映像作品を紹介する。ロンドンのイーストエンドにある一軒のテラスハウスの中に入ったカメラは、キッチンと居間を通り抜け、階上の浴室や寝室をのぞき、地下へと降りてゆく。台所では女性が皿洗いをし、浴室では男性が自慰に耽る。他人の家に入り込んだ気まずさと、訪問者の存在を完全に無視し続ける二人の不自然な行為に戸惑いを覚える。だが、このやりきれなさは、いったん家の外に出て、隣の家に入ると次第に消え去り、代わりに全く別の奇妙な感覚に陥るだろう。他にもシュナイダーの代表作《家 u r》と《死の家 u r》もあわせて上映予定。

ディレクターズツアーのお弁当(「はっちゃんの台所」のお弁当。美味しかった!)を食べながら観た。シュナイダー家、めちゃくちゃ面白い。ネタバレしてしまうと、隣り合ったテラスハウスの鍵を手渡されて1軒ずつ訪問するけど、間取りも調度品も住民の姿も動きも寸分違わず同じという作品。ただでさえ、見知らぬ他人の家に訪問(というより侵入)するのは気が引けるのに、そこで絶対他人に見せるはずのない姿を見せつけられ、なおかつそれが複製されるという、逆に自分の頭がおかしくなったんじゃないか…と思うような悪夢体験。これは第2留のネタバレにもなっているので、順番通りに見てよかったし、これが第6,7の私邸へ向かう橋渡しにもなっていた。

第六留:私邸1 《自己消費される行為》 《喪失》

次なる第6留の場所は秘されている。第5留を訪れた者しかそこに辿り着くことはできない。1階と2階で行われるパフォーマンスは、人間の抱える孤独と私生活での秘密、それとは無関係に外界で動き続ける日常や社会、両者の関係性と矛盾を見る者に問いかける。日時を限定して公開。

最近まで実際に住まわれていた家のようで、インテリア、本、小物類がたくさんあるし、何より暮らしていた家族の匂いが染みついていて「本物」であることが伝わってくるので、勝手に侵入する後ろめたさを感じる。リビングを進むと、あれ?お風呂の匂い?なんと、女性がシャワーを浴びていた!(すりガラスでシルエットだけ見える)2階に上がると、男性が寝ている。驚きながらのぞき見しているうちに、こちら側の存在に一切気づかないまま自らの作業を遂行し続けるので、彼らが幽霊なのか、むしろ自分たちが幽霊なのか、認識と存在が危うくなってくる。

第七留:私邸2 《恍惚》

第7留も限定公開となる。ここはパラレル・ワールドにどっぷりはまって生きる、ある男の住まい。部屋に辿り着くのは困難を極める。

こちらは今も実際に住まわれている、増築を繰り返し特殊な作りになった4階建ての家。玄関すぐの急な階段を上がっていくと、2階は作業場?リビングルーム?になっているけど、これは作品ではなく、実際の居住空間らしい(しかし独特の空間)。3階に上がると、部屋の三方にド派手なパチンコ台が何台も積み重ねられていて、ボタンに触れると大音量が流れ出す。傍らには寝床やパソコン、タバコの吸い殻、顔が塗りつぶされたアニメのポスターがあって、虚構の世界に耽溺している男性の人物像が浮かび上がる。ディレクターの林さん曰く、シュナイダーはパチンコ屋で、仕切りもないのに、それぞれのパチンコ台に各々が没入している姿に興味を持ったそう。それってすごく「個室」的で、プライベート空間にそれがたくさん並んでいるのは、部屋の中にたくさんの部屋が入れ子になっているようで、狂気を感じる(ちなみにこの建物自体の、1階はカレー屋さんで、なおかつ上階にも居住空間が存続しながら1室インスタレーションになっている状態にもリンクする) 林さん曰く、シュナイダーはパーソナル空間である家(特に浴室)に興味を持っていて、家は危険から身を守り安心をもたらすけど、同時に人をとらう檻でもあると。それは単純に、引きこもり問題とかだけじゃなくて、家によって行動範囲や生活習慣が決まり、ある型にはまっていくということも含めて。

ちなみに、あまり大きな声では言えないのですが、3階から伸びたさらに急で幅が異様に狭い階段があって、それを必死に上がって襖を開けると、めちゃくちゃ怖い部屋があったんですよ…でもそれ作品じゃなくてまた別の人が住んでる空間だったらしくて…(震)その部屋の衝撃が強烈すぎて、パチンコの衝撃は消えてしまった。

第八留:神戸市立兵庫荘 《住居の暗部》

神戸市立兵庫荘は、低所得の男性勤労者のための一時宿泊施設として、川崎重工業三菱重工業の造船所の近く、港湾労働者が多く暮らす居住区に昭和25年(1950年)に開設、大勢の入居者を約70年間支援し続けた後、昨年その任を終えた。二段ベッドが並ぶ居室、広い食堂や娯楽室、浴室などをそなえた建物は一見、学生寮のようでもあるが、唯一のプライベート空間であったベッドの上には今も日本酒の空き瓶や競馬新聞などが残されたままで、日本の高度成長期を支えた人々の素顔を垣間見せる。シュナイダーはこの施設に手を入れ、かつての住人の痕跡を追う。彼らの不在はどう感じられるだろうか。

 1泊50円で運営していたらしい。入る前にペンライトを渡されて暗い館内を照らしながら進んでいく。役割を終えた部屋は全て真っ黒に塗りつぶされていて、不在を強化している。一方で、食堂には、醤油やヤカン、囲碁セットが残されていたり、二段ベットが並ぶ部屋には、空き瓶や布団、タオルが。ここで暮らしていた残滓が確かに在って、彼らの暮らしに思いを馳せた。

第九留:神戸市営地下鉄海岸線・駒ヶ林駅コンコース 《白の拷問》

地下鉄海岸線・駒ヶ林駅の改札を出て左に進むと、ゆるやかにカーヴをしながら長い地下通路が続く。その先に第9留がある。扉を開けると、そこには真っ白な廊下が待ち受けている……。同作は、アメリカ軍がキューバに秘密裡に設けた、グアンタナモ湾収容キャンプ内の施設を再現したもの。秘匿されたこの収容所をシュナイダーがインターネットで調査し、収監者の証言を元に、2005年にスタジオ内に再構築した。悲惨な事件の気配を微塵も感じさせない白く清潔な空間では、人や物の不在が、誰もが持ちうる死や罪、不条理に対する恐怖の感情を喚起する。

機械的に並んだ扉を開けると、ベットとトイレ、小さな洗面だけが備え付けられた真っ白な個室。すりガラスの小さな窓から外界は窺えない。一見清潔で、頑張れば1泊できるかも?と思うけど、これが1週間だと人間性を失うかも。家って、インテリアや照明、音楽だったり窓の外の景色で、知らず知らずのうちに人間らしさを守ってくれているんだな。無駄が削ぎ落とされていて、心通い合うものが何もない。集団リンチのあったグアンタナモ収容所を模したものらしいけど、この「檻」に人間を収容するだけでも人としての尊厳を貶める効果は十分にある。それは収容者自身にとってだけでなく、ここで暮らす収容者を監視する側の精神状態も変えていったんじゃないか。狭いながらもそれぞれの生活の品、ささやかな娯楽、プライベート/共用空間を工夫した暮らしを垣間見た第8留との対比。そして、近代社会が目指した合理化は今まで見てきた反復、複製技術により叶えられてきて普通に何の違和感もなく享受しているわけだけど、それを突き詰めると、第4留の悪夢や、5留で見た間取りだけでなく人間までダブリングしているという恐怖へと繋がるんじゃないか、などと思いつつ。実際、シュナイダー作品を体験した後は、街並みが当たり前に見えず、むしろ不自然に思えてきたり、知覚の変化を感じる。ただ、ひとつ気になったのは、ここはサイトスペシフィックな作品ではなく、駅の変電室に新たに建て込んだ空間なので、予算の都合もあってかハリボテ感が強かった。

第十留:ノアービル(3階) 《ドッペルゲンガー

第2留と対になるパフォーマンス&インスタレーション。またしても「あちら側」と「こちら側」の世界が重なり、ずれる。

これは2、3留を見てから廻るべきところだった。2留で映っていたあちら側の和室に到着する。当然、今度は2留があちら側になって、お互い手を振り合う。あちらとこちらが簡単に入れ替わる怖さ、面白さ。

第十一留:ノアービル(屋上) 《空っぽにされた》

ここは本当に何もないただの屋上で、あっけにとられてしまった。でも、今まで巡ってくると、この何もなささえ意味ありげに思えてくる。(かつてあったものの痕跡を探そうとしたり)そして、第3留の、カラフルに塗り分けて檻の存在を誇張させた屋上と対になっているのは明らかで、それを考えるならば、屋上をとり囲うフェンスによって、屋上全体が檻になっている。つまり、鑑賞者自身が客体化されて、展示物に入れ替わってしまう仕掛けになっている。第3留の前振りすごくないですか…。 震えました。

第十二留:丸五市場 《死にゆくこと、生きながらえること》

1918年(大正7年)に開場し、一世紀以上の歴史を持つ丸五市場は、1995年1月17日、阪神・淡路大震災に見舞われながらも、休場日だったことから幸いにして火災を逃れた「奇跡の市場」である。ここで最後に訪問者を待ち受けるのは、第1留で生まれたデジタル世界の年老いた住民たちである。増殖する亡霊たちは、TRANS- 会期の最終日にひとつの存在へと昇華され、第1留に出現する。

これ、わたしのアプリ起動がやたら遅くて(こういう時、格安スマホの弱さが出る)あまり体感できていないのですが、AR技術を使って、スマホを通してみると、いきなりお年寄りが佇んでいたり、座っていたりするんですね。幽霊的に。

でも、異物感というか怖いという感じはなくて、本当に自然に馴染んでいる。それはこの場所が寂れたでも細々と生き残っている場所だからでしょうか。ただ、ドッペルゲンガーとして現実世界とデジタル世界に存在する。たとえ現実世界で亡くなってもデジタル上には半永久的に存在する。なんなら今ここにいる鑑賞者が死んでもなお存在し続けるかもしれない。生と死が入れ替わる。

 

以上、12留通すって、ちょっと人生観変わるぐらいの超贅沢な体験だった。

本当に最高だった…。(疲れすぎて死んだ眼差しだったけど)特に面白く感じたのは「ここ」と「そこ」の置換性と、反復性、合理化としての複製と人間性。街歩きや建物巡りとしての面白さもあった。私にとって神戸はあまりなじみのない街だったけど、例えば毎日通っている道沿いにある店や施設だって必ずしも入ったことがあるわけでもないし、普通の住宅や会社ならなおさら。見ているようで見過ごしているもの、知ろうとしていないものは山とある。おかげで、イマ―シブシアターからもっとサイトスペシフィックな方に興味が傾いてきた。

『天気の子』を観た話。

『天気の子』を観た。まず本編に行く前に『CATS』予告編が気持ち悪すぎて、体調崩しかけた(大袈裟ではなく本気で)。『CATS』を知ってる身ですらこれなので、全く知らない人が観たら卒倒しません…?大丈夫…?と言いながら予告を貼る。

 

さて、『天気の子』の話。

緻密な作画で描かれていたのが、「君の名は。」で三葉が胸をときめかせていた、あのキラキラした東京ではなくて衝撃を受けた。光輝くのはラブホ、風俗店の派手なネオンにバニラ求人の広告車。空模様に呼応するように、都市の暗所しか出てこない。降り止まない雨の中、濡れねずみになって「東京、こえぇ…」と呟く穂高。瀧の身体を借りた三葉とは雲泥の差で、よそものの居場所なさが辛い。かたや両親のいない陽菜も、家はあれど養育者はおらず、子供二人での生活は社会的には容認されてない。おまけに、お金のために、性搾取されかける。「君の名は。」でも分かり合えない大人は出てきたけど、それでも説得を試みてカタストロフを回避できた。かたや『天気の子』では、大人たちから、そして都市から疎外された子供達は、ひたすらに逃走するか、もしくは公的な権力にすら拳銃を向けて歯向かう。爽やかなジュブナイル映画にさせてくれず、アウトロー達のクライムムービーになってしまう。
一方で、降り止まない雨って「方舟」とか「雨がやんだら」のように世界の終わりを連想するけど、街の人たちが命の危険や社会崩壊への危機感や悲壮感を抱く様子も、行動を起こす素振りも描かれず、いたって無関心に見える。(フィジカルな危険性に触れられるのは喘息くらい?水害での死の描写は一切ない)かと思えば、穂高のモノローグで語られる通り「ただの空模様に、人間はこんなにも気持ちを動かされてしまう」もので、陽菜と穂高が立ち上げた晴れ女ビジネスに依頼が殺到するし、SNSハッシュタグには晴れ乞いの言葉が無邪気に並ぶ。自分の願う範囲内、時間だけ晴れれば気が済んでしまう。

都市ー地方の格差、災害の当事者と非当事者の記憶と忘却を扱った「君の名は。」から3年。都市の中にも憧れの暮らしはなくて、若者たちが貧しい暮らしを余儀なくされている。そして、もはや自らが当事者になっても無関心、忘却し続けて何も行動を起こさないばかりか、他人(次世代を担う若者)への搾取や代償を気づかないフリして(もしくは想像力が退化し)無邪気に欲望を曝け出す、という、くるとこまできた感があり、自然と「わたしの星」のラストの改編や、グレタさんのことも思い出した。

結局、陽菜の命と引き換えに東京は水没する。穂高の「大丈夫」には、「全然大丈夫ちゃうやんけ!」と思ったのですが、ただでさえ搾取され、社会から疎外されてきて、さらに、天気を操ることで自らを引き換えに(能動的ではなく無意識に)世界を救わされる宿命の放棄を、誰がとやかく言えるだろう。むしろ彼らは、世界と自分がつながっている、いわゆる「セカイ系」の自覚を獲得して、犠牲や代償の重みを理解した上での放棄、そして、雨の降り止まない世界を引き受けて生きていく「大丈夫」だから、やっぱり「大丈夫」に違いない。

くるところまできた世界の中で、問いが繰り返される。「愛にできることはまだあるかい?」「僕にできることはまだあるかい?」無関心の反対は愛。世界を変える最後の手段として、まだ愛がある。「愛にできることはまだあるよ」「僕にできることはまだあるよ」愚直に、未来への希望と願いが託されている。

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』@ロームシアター+「ドレス・コード?」

『蛸入道 忘却ノ儀』@京都ロームシアター ノースホール

作・演出:タニノクロウ

出演:木下出、島田桃依、永濱佑子、西田夏奈子、日高ボブ美、森準人、森山冬子、山田伊久磨(五十音順)

『ダークマスター』で興味を持った庭劇団ペニノ。最近ハマっているイマーシブシアター的な作品らしいのでS先輩と共に観にいってみた。

本作では、寺院を模した空間を劇場に建立し、観客はその内部に招き入れられるだけでなく、俳優たちが執り行う儀式的なパフォーマンスに巻き込まれていく。8本の足、3つの心臓、9つの脳を持ち、その不可思議さから宇宙から到来した生命とも呼ばれる蛸が空間と祭事のシンボルに据えられる。経典の反復とヴァリエーション、かき鳴らされる楽器、閉ざされたお堂の中に充満する香りとねばりつく熱気。観客の五感もまた俳優のそれと同様に総動員され、音楽的な快楽に身体を明け渡し、時間感覚を見失ってしまうようなあやうい没入感から逃れるのは容易ではない。リアルとフィクションの境界が溶け去り、トランス状態に達した時、わたしたちはなにを忘却してしまうのか。

ノースホールへ続く階段を下りると、ロビーから既にパフォーマンス用の準備が始まっていた。お客さんはお札に自分の願いと名前を書かされて、蛸壺に入れさせられる。そいざ劇場へ入ると、紹介文通り、お堂そのもの。経本と打木や鈴などの楽器をもらい、壁沿いのベンチ状の椅子、もしくは地べたに敷かれた座布団に座る。作・演出のタニノクロウ氏からだらだらとした制作意図の説明があり(小劇場の前説問題がまた発生…)話の最後に、お堂の中央にある盧に火をつけてだんだん暑くなるので、上着は脱いでおくように、との注意喚起が。

「儀式」には第16節まであって、観客は節ごとに区切られた、般若心経をもじった経本を目で追いながら、お堂の中央で繰り広げられる信者たちのパフォーマンスを五感で感じ、時折自分も参加する。通常の観劇のように見る・聴く行為に集中せず、むしろ注意散漫に日常生活に近い形でいくつかのレイヤーを切り替える。節を追うごとに、教義やお堂のいわれや構造の情報を経本から得て、儀式に立体性が出てくると、根も葉もないエセなはずなのに、不思議と厳かな気持ちにさえなってくる。さらに、お堂の戸や窓を閉めたり、盧の蓋になっているお札を壁に立てかけたりする作業は観客に任せられ、儀式の一体感や信憑性を増していく。盧に火をつける作業中、役者さんが火がつかないそぶりで場内にいるタニノさんのところへやってきて、タニノさんが急いでチャッカマンで火をつけた。見ている時は本当にアクシデントかと思ったけど、後々冷静に考えてみると、消防法的にこんな大々的に火を使えるはずもなく、これも演出の一つだということがわかる。上着を脱ぐように、という注意喚起も、役者さんたちが重ね着した服を脱いでいくのも、お香の匂い、煙が立ち込めるのも、途中で観客に水が配られるのも、熱狂度が上がりトランス状態へ導く仕掛けとして巧妙に仕組まれている。ただ、肝心の中身が、グレゴリオ聖歌風のお経まではついていけるとして、エレキギターや三味線が飛び出したり、いきなり民謡調になったり、と、トランス状態へ導くための実験のヴァリエーションとしては面白いけど、当初の設定からは大きくかけ離れ、節ごとの前後の流れもあまりに唐突すぎてボルテージが上がらない。役者さん達がトランス状態の芝居をするのも逆に白々しく(台本から逸れて恍惚に浸ってしまうていで、タニノさんが次のパフォーマンスへ進むようひと促す)、醒めた目で見てしまった。とはいえ、儀式後、お堂の窓や扉を開けると、陽(照明)が差し込み、不思議とやり終えた充実感に浸れるのですが。
東京では「BEAT」というツアーパフォーマンスが話題になっていた。こちらも楽器を使った熱狂的で祝祭性豊かなパフォーマンスのよう。

演劇の源流の一つはこういう儀式・祭的パフォーマンスだったはずで、こういう原初体験に立ち返るのにも興味がある。     

観劇後、さっさと帰ろうと思っていたら、「ドレス・コード?」展@京都国立近代美術館チェルフィッチュの映像演劇が出展されていることに気づき、近いので行ってみることに。残念ながらファッションセンスは皆目ないのですが、単なる服装史的な展示ではなくて、性や社会的属性、キャラクターがいかに服飾によって表現/規定されるか、という展示だったので、面白かった。チェルフィッチュに加えて、マームとジプシーの作品もあったし。これはイノサン


チェルフィッチュの映像演劇は美術手帖で読んで気になっていたもの。自分は演劇畑だから演劇の文脈から捉えられる気もしたけど(美術手帖も読んだし)、正直、一つだけでは、よくわからなかった…。マームとジプシーは物語性、キャラクター性に特化したもの。

チャプターごとに26人の女性それぞれに紐づいたアイテムが提示されて、パズルのように組み合わせていくと、暮らしだったり、人物像が少しずつ見えてくる。捜査みたい。さらに、真ん中のテーブルに、女性たちの何気ない会話がカードが無造作に置かれていて、持ち帰りOK。

思いがけず、滑り込みで行けてよかったです!

「ボディガード」@梅田芸術劇場メインホール 感想

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貧弱な脚本と薄い人物造形で、とてもミュージカルとはうたえない代物。美術の魅力も乏しくて、テーマパークでやっている、申し訳程度にストーリーのついたライブショーという感じだった。
ヒロインのレイチェル(アレクサンドラ・バーク)は当然歌が上手い。ただ、昨今の招聘もので耳が肥えてしまったのか圧倒的とまでは行かず、スター役としてカリスマ性がないのが致命的。このあたり、日本版のれおん君がスターオーラを存分に振りまいてくれるだろうから期待したい。むしろ、姉のニッキー役の方がミュージカルらしくドラマチックに歌い上げていた。それにしてもニッキー、不憫すぎひん…?
普段、舞台にしろ映画にしろ、登場人物への共感を重視していないのですが、それでもさすがに共感できなさすた。そもそもレイチェルがボディガード(ブノワ・マレシャル)に惚れるのが急だし(お姫様抱っこの威力絶大すぎ)、ボディガードも取引相手に簡単に手を出すなよ…と思ってしまう。二人の恋なんて本当にどうでもいいから…どうか…ニッキーに幸あれ…とずっと願かけてた。だって、自室のベッドに眠るボディガードを自慢げにニッキーに見せつけるレイチェルと、わざわざセキュリティ薄そうなログハウスに行って、ストーカーに普通に正面ドアから侵入されて(セコム付けて!)、ニッキーが犠牲にあうのに悔やんでる様子のないプロ意識0なボディガードですよ…?それよりも屈折した人生を送ってきたニッキーを幸せにしてやってくれ…!そして、二人のいちゃつきの陰で、ストーカーがやたら肉体美を披露してくるのも、共感、理解の範疇を超えている。
逆にいうと、ミュージカルよりもライブショー風ということは、ライブシーンはちゃんとそれらしく照明もライブ仕様に派手で(眩しすぎて鬼の形相で見ていた)客席もそれなりに盛り上がっていたので(ホイットニー世代は全曲知ってるくらいの有名曲なんですね!)、音楽好きは楽しめたのかもしれない。
残念ながらわたしは映画世代ではなく、エンダー部分しか知らない、ホイットニーに一つも思い入れのない人間なので、何の感慨にも浸れないままツッコミに追われる、ある意味忙しい2時間半だった。今回の学びは、一番の見せ場エンダー!で突如流れる二人の回想VTR。てっきり、この手の映像は宝塚だけだと思ってたので、「恥ずかしムービーは万国共通」と知って、ひとつ賢くなった。日本版にもこれとかストーカームービーあるのかな…爆笑の予感しかない…楽しみ…(ネタにしたいがために観たい)。
そう、字幕も面白くて、追い出しミュージックの時、「パンフ売ってます!」「UKツアー直輸入グッズ売ってます!」「リピチケ売ってます!」と鬼のように売り込んでくるのに梅芸の商売魂を感じて笑ってしまった。