だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

Trans- KOBEが最高だった話。

最近イマーシブシアターにハマっていて、その関連で興味を持ったアートイベント。

trans-kobe.jp

関連企画は用意されているものの、やなぎみわさんとグレゴール・シュナイダーの2名だけにフィーチャーした超コアなアートイベント。しかも、やなぎさんは3日間限りの舞台公演を手掛けているので、2か月近い会期中に楽しめるのはシュナイダーの作品のみ。シュナイダーの作品は神戸市内に12ポイント散りばめられている。中には、日時限定公開だったり整理券制の作品もいくつかあって、回りやすいものから2日に分けて行くかな…なんて思ってたら、日時限定パフォーマンスも含め1日で全て回れるというディレクターズツアーの存在を知って、速攻予約した。

以下、振り返り。興味を持たれている方には、ネタバレは極力避けて(ここから先は読まないほうが良いです)、「少々無理してでも行ったほうが良い、最高」とだけお伝えしておきます。~11/10まで。ディレクターズツアー第2弾が11/9に決定したようなので、全部制覇したい方はそちらで巡るのがベスト。(というか、そうでもしない限り1日ではまわれない)ディレクターの林さんやスタッフさんが解説・案内してくれ、お弁当も1日乗車パスもついて3000円!(まわしものではない)ちなみに、ディレクターズツアーでは、第3留→第1・2から始まり、あとは順番通りだったと思う。後になって思うと、想像以上に留同士がリンクしているので巡る順番も大事なので、なるべく順番通りに行けるこのツアー、かなり貴重だった。

 

一留 デュオドーム 《死にゆくこと、生きながらえること》

JR 神戸駅の南口を出てエスカレータを下ると、吹き抜けの広場「デュオドーム」に出る。ここはTRANS- の玄関口であり、シュナイダーの《12の道行き》の最初の留 (りゅう) となる。特設ブース内に招かれた神戸市内に住む老人たちは、高精度の3Dスキャナで撮影され、3Dアバターへと変身(会期中に総勢1,000人が参加予定)。空蝉のひとがたはデジタル世界のなかを亡霊のように彷徨い、12番目となる最後の留で姿を見せる。生と死、内と外、現在と過去が不意に入れ替わるシュナイダー作品の旅は、ここから始まる。

原則、3Dスキャンできるのは、75歳以上の人のよう。第12留のための素材集め。

第二留:デュオドーム 《ドッペルゲンガー

デュオドームに鎮座する黒い構造物が2番目の留の目印となる。そこでは二人の人物が床に座り、同じ動作を単調に繰り返している。よく見れば、その二人とそっくりな人物がその向こうにいて、やはり同じ動作を繰り返している。鑑賞者はまるで鏡の前に立っているかのような感覚に襲われることだろう。しかし彼らの背景に目を転じれば、映り込んでいるのはここではないどこか。自分ではない他人の姿も見える。交差する「こちら側」と「あちら側」。その交差点を探すのもこの旅のミッションとなる。

黒い構造物の中にはスクリーンが設えられてあり、そこに映った和室には、こちら向きに数名の女性が座っている。時間になるとスクリーン前を横切るように若い男性が現れて、スクリーン前に用意された黒い座布団に座る。同時に、スクリーンの向こう側にもまったく同じ人が現れて、向かい合わせに座り、同じ仕草をし始める。過去映像にこちらが合わせている?こちら向きにカメラが設置されているから、実は最先端カメラと特殊な座布団で男性の映像だけを反転させてる?などと思っていると、だんだんとズレや差異が際立ってくる。そしてリアルタイムな鑑賞者の動き(例えば、子供が手を振るなど)に合わせて、スクリーンの向こう側のドッペルゲンガーや後ろに鎮座する人たちまでもが、身振りや表情で反応することがわかってくる。ドッペルゲンガーと聞くと、本来どちらかしか存在してはならない、つまり片方は偽物で本物に成り代わろうとしているという不吉な予感がする(「us」のように)。そして、リアルに今目の前に存在している男性が「本物側」だと疑わないから、向こう側にいる人を過去の映像なり、こちらの映像を転送して生み出されたドッペルゲンガーとみなしてしまう。でも、よくよく見てると、この男性たちはどちらも今、リアルに存在していて、ただ、あちらとこちらで対に動いていることがわかってくる。実は男性たちは双子。仕掛けは単純なんですけど、この知覚の変化がめちゃくちゃ面白かった…。

第三留:旧兵庫県立健康生活科学研究所 《消えた現実》

昭和43年(1968年)に兵庫県の衛生研究所として設立された地下1階、地上7階建のビルを作品化した大型インスタレーション。来場者は、感染症や食品、飲料水などのための検査室や研究室の間を歩きながら、見えない恐怖を体感する。廃墟となったビルの入口に足を踏み入れた瞬間に私たちは自分の居場所を見失い、現実と虚構を行き来しながらいくつもの世界を通り抜けて、また日常へと戻っていく。シュナイダーの真骨頂が発揮された同作は、TRANS- 期間中の限定公開となる。

 一番大掛かりな作品。入口で2人組に分けられ、建物の5〜7階と屋上を順に巡っていく。まず真っ暗な地下からエレベーターで5階に上がると、SF映画に迷い込んだかのような、真っ白な世界。遠近感が狂い、頭くらくら。バイオハザード掲示だけが目を引く。 6階に上がると、老朽化した壁はそのままで、研究道具が過剰に散乱している。5階のむしろ病的なまでの清潔感から真逆。7階は動物の実験室だったらしい。道具などはなくて、ただいくつも部屋があるだけなのに、6階で過剰なほど道具を見たので、想像力が働く。フロアごとに息苦しさやおぞましさみたいなものはずっと付き纏うけれど、それは少しずつ形を変えて、働いていた人達や業務のイメージも変わってくる。ドアに残された張り紙を見て、ようやく人間性に触れられた気がして、ほっとした。

屋上に出ると、カラフルな物体が。これまでの閉塞感が一気に解かれ、まるで遊具のような物体の中に思わず入ってみると、実験動物の檻や…。色を塗るだけで、おぞましさが容易に吹き飛んでしまう。と思ったら、反対側にはリアル焼却炉があって、ギャップが…。

第四留:メトロこうべ 《条件付け》

高速神戸駅と新開地駅を結ぶ地下街「メトロこうべ」内に設置されるのは、100メートル以上も続く地下通路とシンクロするかのように、いつ終わるとも知れない時空間を体験できる通路上の構造物。浴槽も蛇口もなく、金具だけが残された、工事中のように見える浴室だが、シュナイダーの手にかかれば、ただの部屋ではなくなる。見慣れた世界と架空の空間との交錯、あるいは変換。ここがどこなのか、まるでわからなくなる。

 反復する浴室。何度部屋を出ても抜け出せない悪夢のような時間。

第5留:神戸アートビレッジセンターKAVCホール(2F) 《自己消費される生産》

神戸アートビレッジセンター2Fのホールでは、2004年にアーティストが手がけた部屋で双子がパフォーマンスをした《シュナイダー家》の映像作品を紹介する。ロンドンのイーストエンドにある一軒のテラスハウスの中に入ったカメラは、キッチンと居間を通り抜け、階上の浴室や寝室をのぞき、地下へと降りてゆく。台所では女性が皿洗いをし、浴室では男性が自慰に耽る。他人の家に入り込んだ気まずさと、訪問者の存在を完全に無視し続ける二人の不自然な行為に戸惑いを覚える。だが、このやりきれなさは、いったん家の外に出て、隣の家に入ると次第に消え去り、代わりに全く別の奇妙な感覚に陥るだろう。他にもシュナイダーの代表作《家 u r》と《死の家 u r》もあわせて上映予定。

ディレクターズツアーのお弁当(「はっちゃんの台所」のお弁当。美味しかった!)を食べながら観た。シュナイダー家、めちゃくちゃ面白い。ネタバレしてしまうと、隣り合ったテラスハウスの鍵を手渡されて1軒ずつ訪問するけど、間取りも調度品も住民の姿も動きも寸分違わず同じという作品。ただでさえ、見知らぬ他人の家に訪問(というより侵入)するのは気が引けるのに、そこで絶対他人に見せるはずのない姿を見せつけられ、なおかつそれが複製されるという、逆に自分の頭がおかしくなったんじゃないか…と思うような悪夢体験。これは第2留のネタバレにもなっているので、順番通りに見てよかったし、これが第6,7の私邸へ向かう橋渡しにもなっていた。

第六留:私邸1 《自己消費される行為》 《喪失》

次なる第6留の場所は秘されている。第5留を訪れた者しかそこに辿り着くことはできない。1階と2階で行われるパフォーマンスは、人間の抱える孤独と私生活での秘密、それとは無関係に外界で動き続ける日常や社会、両者の関係性と矛盾を見る者に問いかける。日時を限定して公開。

最近まで実際に住まわれていた家のようで、インテリア、本、小物類がたくさんあるし、何より暮らしていた家族の匂いが染みついていて「本物」であることが伝わってくるので、勝手に侵入する後ろめたさを感じる。リビングを進むと、あれ?お風呂の匂い?なんと、女性がシャワーを浴びていた!(すりガラスでシルエットだけ見える)2階に上がると、男性が寝ている。驚きながらのぞき見しているうちに、こちら側の存在に一切気づかないまま自らの作業を遂行し続けるので、彼らが幽霊なのか、むしろ自分たちが幽霊なのか、認識と存在が危うくなってくる。

第七留:私邸2 《恍惚》

第7留も限定公開となる。ここはパラレル・ワールドにどっぷりはまって生きる、ある男の住まい。部屋に辿り着くのは困難を極める。

こちらは今も実際に住まわれている、増築を繰り返し特殊な作りになった4階建ての家。玄関すぐの急な階段を上がっていくと、2階は作業場?リビングルーム?になっているけど、これは作品ではなく、実際の居住空間らしい(しかし独特の空間)。3階に上がると、部屋の三方にド派手なパチンコ台が何台も積み重ねられていて、ボタンに触れると大音量が流れ出す。傍らには寝床やパソコン、タバコの吸い殻、顔が塗りつぶされたアニメのポスターがあって、虚構の世界に耽溺している男性の人物像が浮かび上がる。ディレクターの林さん曰く、シュナイダーはパチンコ屋で、仕切りもないのに、それぞれのパチンコ台に各々が没入している姿に興味を持ったそう。それってすごく「個室」的で、プライベート空間にそれがたくさん並んでいるのは、部屋の中にたくさんの部屋が入れ子になっているようで、狂気を感じる(ちなみにこの建物自体の、1階はカレー屋さんで、なおかつ上階にも居住空間が存続しながら1室インスタレーションになっている状態にもリンクする) 林さん曰く、シュナイダーはパーソナル空間である家(特に浴室)に興味を持っていて、家は危険から身を守り安心をもたらすけど、同時に人をとらう檻でもあると。それは単純に、引きこもり問題とかだけじゃなくて、家によって行動範囲や生活習慣が決まり、ある型にはまっていくということも含めて。

ちなみに、あまり大きな声では言えないのですが、3階から伸びたさらに急で幅が異様に狭い階段があって、それを必死に上がって襖を開けると、めちゃくちゃ怖い部屋があったんですよ…でもそれ作品じゃなくてまた別の人が住んでる空間だったらしくて…(震)その部屋の衝撃が強烈すぎて、パチンコの衝撃は消えてしまった。

第八留:神戸市立兵庫荘 《住居の暗部》

神戸市立兵庫荘は、低所得の男性勤労者のための一時宿泊施設として、川崎重工業三菱重工業の造船所の近く、港湾労働者が多く暮らす居住区に昭和25年(1950年)に開設、大勢の入居者を約70年間支援し続けた後、昨年その任を終えた。二段ベッドが並ぶ居室、広い食堂や娯楽室、浴室などをそなえた建物は一見、学生寮のようでもあるが、唯一のプライベート空間であったベッドの上には今も日本酒の空き瓶や競馬新聞などが残されたままで、日本の高度成長期を支えた人々の素顔を垣間見せる。シュナイダーはこの施設に手を入れ、かつての住人の痕跡を追う。彼らの不在はどう感じられるだろうか。

 1泊50円で運営していたらしい。入る前にペンライトを渡されて暗い館内を照らしながら進んでいく。役割を終えた部屋は全て真っ黒に塗りつぶされていて、不在を強化している。一方で、食堂には、醤油やヤカン、囲碁セットが残されていたり、二段ベットが並ぶ部屋には、空き瓶や布団、タオルが。ここで暮らしていた残滓が確かに在って、彼らの暮らしに思いを馳せた。

第九留:神戸市営地下鉄海岸線・駒ヶ林駅コンコース 《白の拷問》

地下鉄海岸線・駒ヶ林駅の改札を出て左に進むと、ゆるやかにカーヴをしながら長い地下通路が続く。その先に第9留がある。扉を開けると、そこには真っ白な廊下が待ち受けている……。同作は、アメリカ軍がキューバに秘密裡に設けた、グアンタナモ湾収容キャンプ内の施設を再現したもの。秘匿されたこの収容所をシュナイダーがインターネットで調査し、収監者の証言を元に、2005年にスタジオ内に再構築した。悲惨な事件の気配を微塵も感じさせない白く清潔な空間では、人や物の不在が、誰もが持ちうる死や罪、不条理に対する恐怖の感情を喚起する。

機械的に並んだ扉を開けると、ベットとトイレ、小さな洗面だけが備え付けられた真っ白な個室。すりガラスの小さな窓から外界は窺えない。一見清潔で、頑張れば1泊できるかも?と思うけど、これが1週間だと人間性を失うかも。家って、インテリアや照明、音楽だったり窓の外の景色で、知らず知らずのうちに人間らしさを守ってくれているんだな。無駄が削ぎ落とされていて、心通い合うものが何もない。集団リンチのあったグアンタナモ収容所を模したものらしいけど、この「檻」に人間を収容するだけでも人としての尊厳を貶める効果は十分にある。それは収容者自身にとってだけでなく、ここで暮らす収容者を監視する側の精神状態も変えていったんじゃないか。狭いながらもそれぞれの生活の品、ささやかな娯楽、プライベート/共用空間を工夫した暮らしを垣間見た第8留との対比。そして、近代社会が目指した合理化は今まで見てきた反復、複製技術により叶えられてきて普通に何の違和感もなく享受しているわけだけど、それを突き詰めると、第4留の悪夢や、5留で見た間取りだけでなく人間までダブリングしているという恐怖へと繋がるんじゃないか、などと思いつつ。実際、シュナイダー作品を体験した後は、街並みが当たり前に見えず、むしろ不自然に思えてきたり、知覚の変化を感じる。ただ、ひとつ気になったのは、ここはサイトスペシフィックな作品ではなく、駅の変電室に新たに建て込んだ空間なので、予算の都合もあってかハリボテ感が強かった。

第十留:ノアービル(3階) 《ドッペルゲンガー

第2留と対になるパフォーマンス&インスタレーション。またしても「あちら側」と「こちら側」の世界が重なり、ずれる。

これは2、3留を見てから廻るべきところだった。2留で映っていたあちら側の和室に到着する。当然、今度は2留があちら側になって、お互い手を振り合う。あちらとこちらが簡単に入れ替わる怖さ、面白さ。

第十一留:ノアービル(屋上) 《空っぽにされた》

ここは本当に何もないただの屋上で、あっけにとられてしまった。でも、今まで巡ってくると、この何もなささえ意味ありげに思えてくる。(かつてあったものの痕跡を探そうとしたり)そして、第3留の、カラフルに塗り分けて檻の存在を誇張させた屋上と対になっているのは明らかで、それを考えるならば、屋上をとり囲うフェンスによって、屋上全体が檻になっている。つまり、鑑賞者自身が客体化されて、展示物に入れ替わってしまう仕掛けになっている。第3留の前振りすごくないですか…。 震えました。

第十二留:丸五市場 《死にゆくこと、生きながらえること》

1918年(大正7年)に開場し、一世紀以上の歴史を持つ丸五市場は、1995年1月17日、阪神・淡路大震災に見舞われながらも、休場日だったことから幸いにして火災を逃れた「奇跡の市場」である。ここで最後に訪問者を待ち受けるのは、第1留で生まれたデジタル世界の年老いた住民たちである。増殖する亡霊たちは、TRANS- 会期の最終日にひとつの存在へと昇華され、第1留に出現する。

これ、わたしのアプリ起動がやたら遅くて(こういう時、格安スマホの弱さが出る)あまり体感できていないのですが、AR技術を使って、スマホを通してみると、いきなりお年寄りが佇んでいたり、座っていたりするんですね。幽霊的に。

でも、異物感というか怖いという感じはなくて、本当に自然に馴染んでいる。それはこの場所が寂れたでも細々と生き残っている場所だからでしょうか。ただ、ドッペルゲンガーとして現実世界とデジタル世界に存在する。たとえ現実世界で亡くなってもデジタル上には半永久的に存在する。なんなら今ここにいる鑑賞者が死んでもなお存在し続けるかもしれない。生と死が入れ替わる。

 

以上、12留通すって、ちょっと人生観変わるぐらいの超贅沢な体験だった。

本当に最高だった…。(疲れすぎて死んだ眼差しだったけど)特に面白く感じたのは「ここ」と「そこ」の置換性と、反復性、合理化としての複製と人間性。街歩きや建物巡りとしての面白さもあった。私にとって神戸はあまりなじみのない街だったけど、例えば毎日通っている道沿いにある店や施設だって必ずしも入ったことがあるわけでもないし、普通の住宅や会社ならなおさら。見ているようで見過ごしているもの、知ろうとしていないものは山とある。おかげで、イマ―シブシアターからもっとサイトスペシフィックな方に興味が傾いてきた。