だらだらノマド。

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Kミュージカルシネマ『モーツァルト!』配信 感想

見れずじまいで不貞腐れていた韓国版『モーツァルト!』のオンライン配信。アンコール配信でようやく見ることが出来ました!国内の観劇ですらままならない中、まさかこういう形で見られるとは思ってなかったので、本当にありがたい。

piakmusicalmozart.com

キャストはこちら。

ヴォルフガング:キム・ジュンス

コンスタンツェ:キム・ソヒャン

コロレド:ミン・ヨンギ

オポルト:ホン・ギョンス

ヴァルトシュテッテン男爵夫人:シン・ヨンスク

ナンネール:ぺ・ダへ

ウェーバー夫人:キム・ヨンジュ

シカネーダー:シン・インソン

アルコ伯爵:イ・サンジュン

演出:エイドリアン・オズモンド

 

モーツァルト!』は、ウィーン初演・新演出版、ハンガリー版を映像で、日本初演・新演出版を生で観てきているはずなのですが、なんせ脆弱な海馬なもので、引き合いに出しながら間違ってたらすみません。(自分の記憶力に自信がなさすぎる)韓国版は初観劇です。

まず、日本版のオープニングって、新演出版でも「モーツァルトモーツァルト!」なんでしたっけ?(いきなり問うスタイル)日本版のオープニングだと、レオポルトや取り巻きが賛美するヴォルフガングの天才ぶりにフォーカスが当たって「天才モーツァルトの生涯」として物語が始まり、アマデとヴォルフガングの関係性を主軸に展開する。

韓国版はオリジナル版に沿っていて「奇跡の子(Was für ein Kind!)」から始まる。こちらのバージョンだと、赤いコートをマリア・テレジアから褒美として受け取るくだりがあって、何故、大人になってから新調するほど気に入っているか、わかりやすいし、この赤いコートって、アマデ(神童)時代の象徴であると共に、高貴な身分に音楽を捧げることによって庇護を受けることの象徴でもあって、途中でコートを脱ぎ捨てるくだりまで含めて、彼の音楽家としての思想を示す重要なアイテムだと思うので、オープニングでその由来を入れてくるのは、正しさを感じた。

音楽的にも「モーツァルトモーツァルト!」のように重々しくなく、アマデの子供らしい振舞いに父親が突っ込みながらも、最後にはレオポルトの本音も滲んで、レオポルトの人となりや家族関係がクリアに伝わる。日本版には登場しない母親役やナンネールが子役であることも要因かも。

1幕のその後はかなりオーソドックスで、爽やかすぎるジュンスヴォルフガングにちょっと戸惑ったぐらい。これが2幕になってくると、ギアチェンジしてくる。元々、ヴォルフガングはアダルトチルドレンとして描かれていて、日本の新演出版でも、この辺りはかなり整理されてわかりやすくなった印象でしたが、親子、そしてナンネールも含めた家族の話としてより深まっていたことに衝撃を受けた。(ウィーン新演出版でもレオポルトの印象が強かったけど、なんせ言葉がわからないので、そこまで理解が深められてなかった)

とりわけ印象的なのは、2幕、ヴォルフガングがウィーンで成功を収め、一緒に喜びを分かち合えると思って呼び寄せたレオポルトに拒絶されるシーン。ここでレオポルトははっきりと「今や息子が光となり私が陰になってしまった」って独白した上で(日本で言ってる印象がない)、ヴォルフガングを一切褒めることも認めることもなく、とにかく難癖をつけまくる。その前には、コロレドの元に自分の孫を連れて行って、彼がヴォルフガング同様「私の血を受け継いだ」奇跡の子であり、「天才は(自分が)”作り出せる”」と断言するヤバいくだりもある。この2つのシーンから、レオポルトにとってヴォルフガングはいつまで経っても自分自身に付属するもので、彼へ向ける愛おしさは結局、自己愛の延長に過ぎないということが痛いほどわかるんですよね。なので、自分の力なしで成功した息子を受け止めることはできないし、愛情なんてなおさら。そして、レオポルトはその「愛さない」呪いをかけたまま、死んでいくわけですが…。で、これまた衝撃だったのは、この後の「何故愛せないの」の歌詞が日本版とニュアンスが違ったこと。日本語では「思い出だけ抱きしめ」となっているフレーズが「幼い頃の自分をしまっておく」(的な)になってて、「思い出」っていうと「お父さんと一緒に歩んだ記憶を忘れずに」という意味かなと思ってたんですが、この文脈だと「天才(神童)としての自分」なんですよね。父からの愛情が「天才(神童)としての自分」にしか注がれないことに慟哭しながら、それでも父が望んだ天才アマデと決別して、自らの人生を生きる宣言をする、ってことで。ジュンス絶唱も相まって、あまりに壮絶なシーンで、鳥肌総立ちでした。

神話を始め古今東西の物語には「父殺し」のモチーフがありますが、このミュージカルはむしろ「父殺しが出来なかった」悲劇なんだなと気づく。正しく父を乗り越えられず、父の死後まで続く呪いによって殺されてしまった王子の物語。ヴォルフガングを権威的に縛っているのはコロレドも同じで、第二の父的な存在だと思うのですが、彼はレオポルトに「天才は作り出せる」と言われても、そんなのまやかしであることに気づいているんですよね。自分の理性の範疇を超えたヴォルフガングの才能を認めた上で、自らの権威付けのために利用しようと画策しているので、もはやレオポルトより可愛い気あるのでは疑惑が‥。レオポルトが亡くなった後のヴォルフガングとコロレドの追加曲(「星から降る金」と似通う人生の選択について説いた曲。でも選ばせようとする道は真逆)で、もう一度ヴォルフガングを支配下に置くべく、何度振られても構わず口説きまくる猊下。でも、ここでもヴォルフガングは1幕同様、頑として拒絶するんですよね。何故第二の父コロレドに対しては真っ当に闘って倒せるのに、レオポルトにはできないのか。これが「愛」と「家族」という呪いなんでしょう。

「私ほどお前を愛するものはいない」か「プリンスは出ていった」(うろ覚え)で、ナンネールとレオポルトが壊れゆく家族について歌う時、子役ナンネールとアマデが駆けていく回想シーンが挟まるとか、ヴォルフガングがナンネールの結婚資金を送ろうとする時ナンネールの幻が現れるとか、そういう細かな演出も「家族」の物語性を強めてましたね。それに、ヴォルフガングが死の間際に「王子は王となった。金の星を探したけど幸せは見つからなかった」(これも日本版の印象がないんですけど歌ってます‥?)的な歌詞があって、ナンネールが歌う「私がプリンセスで弟がプリンス」だとか「プリンスは出て行った」のモチーフと「星から降る金」の王と王子の寓話が重ね合わさる。男爵夫人に導かれコロレドを退けて自ら選びとったはずの人生に、虚無感が一気に押し寄せて、ぞっとした。かたや”プリンセス”だったナンネールはヴォルフガングのために自分が主役の人生を送れていないはずで。プリンスからキングになろうが、プリンセスになれなかろうが、たどり着いた先は虚無っていう。これって結局『エリザベート』でいう「Nichts, Nichts, Gar Nichts(何も何も何もない)」なのでは、と震えた。

エリザベートの傍らには甘美なトートがいたけれど、ヴォルフガングの傍らにはアマデがいて、ナンネールにはやはり子役のナンネールがいる。日本版のアマデがヴォルフガングと表裏一体にである一方で、韓国版は出番も絡みも限られていて一見印象が薄め。日本版だと、導入部からしてアマデ=「ヴォルフガングの卓越した才能の象徴」というイメージだけど、韓国版は「神童だった幼き日の自分そのもの」なんですよね(そして、ナンネールの子役もまたナンネールの回想シーンにアマデのように登場する)。挙句の果てには、2幕最後の「影を逃れて」リプライズでは、舞台上に誰も登場せず、ようやくヴォルフガングが現れたと思いきや、彼の目の前でアマデとレオポルトが熱く抱擁し合うという悪夢を繰り広げてくれて、どこまでも影を逃れられないし、何も何も何もないのだと虚無の眼差しになりました。愛とは、家族とは、大人になることとは、自分の人生を生きることとはどういうことなんだろう…(泣きそう)。

それでいうと、これまであまり考えたことなかったけど、コンスタンツェもまた別の形で、親に支配というか搾取される人生を送っているんだな、ということを今更。プラター公園での再会シーンで共鳴し合う二人の心の根底にある寂しさをひしひしと感じた。それに、「ダンスはやめられない」の歌詞が、日本版では直接的に表現されていない「自分の人生を生きたい」というニュアンスが強く、凡人とか天才とか関係なく、コンスタンツェも自分の人生を生きることがままならず、もがいている人なのだと思った。みんながみんな、もがいている…(再度泣く)。

キャストは、さすがにみんな歌がお上手だった。ヴォルフガングは1幕の時点ではこの感じでどういう風に2幕を展開していくんだろう‥という良い子ちゃんなお芝居だったのですが、2幕のギアチェンジが凄まじかったのと、全体を観ると「父と子」という軸が見えて1幕の芝居にも納得した(ところで今までそんなにまじまじとジュンスを見たことないけど、こんなにぽちゃっとしてましたっけ?)。コロレドは良い声だったけどもう少しオーラが欲しい。レオポルトは理想的。アルコ伯爵の悪い顔が忘れられません。

あと、装置は、迫り出す階段やキャンピングカー風のウェーバー家など何となくオリジナル版を彷彿とさせるようなものがいくつか。背景は映像(あまり良くなかった)で、全体的にはオーソドックスな作り。照明は多い緑・青・紫系をよく使っていて、照明プランナーも招聘かなと思ってたんですが、クレジットを見る限り韓国の方でした。韓国ミュージカルはプランナーを海外から招聘してくるイメージが強く、そこで得たノウハウなのかもしれません。

 

以上、感想でした。

面白かった!素晴らしかった!という気持ち以上に、ウィーン版『エリザベート』を観た時同様、今まで観せられてたん何やったんや(泣)感があり、大きな衝撃を受けました(小池先生への不信感が募る一方)。今回の日本語字幕は、明確かつかなり具体的に表現されていて、これが字幕上補完したものなのか元の歌詞から情報量が多いのかは気になりますが、どちらにせよ日本歌詞よりもずっとオリジナル版のニュアンスを汲んでると思うので。もちろん、これを家族の物語として更に深めた細やかな演出も素晴らしかった!

来年や再来年は韓国へ行けるようになってるんでしょうか‥最近コスメやドラマでも韓国にハマりつつあるので、早いところ行きたいな…。