だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

「高槻芸術時間 インタールード」

高槻城公園芸術文化劇場のプレイベントと冠されながら、今年の7月に閉館した旧 高槻現代劇場を起点にしたアートイベント。梅田哲也さんのツアーパフォーマンスと演劇クエストという気になりすぎる組み合わせで、ずっと楽しみにしていた。

inter-lude.net

 

 

まず、梅田さんのツアーパフォーマンスへ。まさかの予約時間を1時間間違って記憶していて、到底間に合わない電車に乗る寸前でそれに気づいた私。震える手で事務局に電話したところ、ご厚意によって1時間後のツアーに組み込んでもらえた…。(本当にすみませんでした。そして快く入れてくださってありがとうございました。)

市民会館と文化ホールを併せ持つ高槻市現代劇場の客席、舞台上、会議室、レストラン、楽屋などなど、ありとあらゆる場所をガイドされながら巡るツアー。

カーテンで閉ざされたチケットブースからそっと手が伸びてきて、鍵を置く。その鍵で劇場の扉を開けるところから始まる。もうこの時点で心震えてしまう。
"ガイドされる"と書いたけど、パフォーマンスの冒頭と数カ所のみ高槻市職員の人が劇場の説明をする以外は、ノンバーバルのパフォーマーが入れ替わりながら、ミステリアスに、時に茶目っ気たっぷりに行くべき場所を示してくれるのみ。 

劇場内に入ると、まず、高槻市民が閉館時に書いたであろう劇場内の壁にびっしり書かれた寄せ書きに心打たれてしまう。数えきれない”ありがとう”の文字がカラフルに躍っている。開け放たれた調光室、音響室を覗き見ながら、誘導されるがままに客席2階へ向かう。

1964年に開館して半世紀以上現役だった客席からは、途方もない歳月を感じる。オレンジや黄色の大きな円が客席サイドの壁面にたくさん並んでいて、なるほどインタールードのメインビジュアルはここからきていたのか、とやっと気付く。デザイン的にも経年劣化的にもEXPOを思い出したりした。

野外劇場のような古びた座席に腰掛けると、不思議な訛りの場内アナウンス、続いて開演アナウンスが鳴り響き、幕が開く。そこにいるのは10人ほどの知らない誰か。もうこの時点で仕掛けがわかってしまって泣きそうになる。そこに立つまでの道のりに何が待ち構えているんだろう。
方向音痴なので、どこをどう歩いているのか序盤でわからなくなってしまったけれど、市民会館棟と文化ホール棟の2つに分かれた建物内を、代わる代わる複数のガイドに導かれて上がったり下りたりくぐったりしながら歩を進めていく。
かつて式典や講演で使われただろう看板や、まだ劇場が真新しかった頃、さらには施行中の写真が舞台裏やロビーに点在している。劇場という名は付いているもののカルチャーセンターや宴会場としても機能していて、数多くの披露宴や発表会が開かれてきたらしい。
ある部屋では、ド派手に回るミラーボールから過去の祝宴に思いを馳せた。カセットテープの指示に従って乗るエレベーター。緑のワンピースを着た女の子が弾く辿々しメヌエットのピアノ演奏と連動する照明。偶発的なのか照明を消した後にカチカチと余韻が響く部屋。カーテンを旗みたいに掲揚してにっこり笑う女の子。役目を終えた食堂の厨房でも変わらずイキイキと輝く食品サンプル。大道具を運ぶスタッフ、手引きの緞帳。咆哮のような舞台の音。狭いベランダで密かに石を積み重ねる謎の手。それを別の角度から再び観察する。石を積み重ねる人の背中。謎の手を見詰める、私たちと時間差で劇場を巡るツアー一行。その中の誰かと目が合い、手を振り合う。過去の自分への挨拶のように。冒頭に市役所の人が説明してくれた、正面入口の壁画の続きとの出会い。三連の壁画のうち壁の増築により見られなくなってしまった右端の壁画が、普段誰も立ち入ることのないだろうコンクリの謎スペースに確かに存在していた。しかもそれが大きな太陽で、誰の目も届かないところでも確かに輝き続けてたのだと思うと泣けてくる。

巡り巡って、ついに舞台上のバミリに横一列に立たされる。舞台の前っ面には大きなアンパンマンが描かれていた。これも閉館の時に誰かが描いたんだろうか。開演アナウンスとベルが聞こえ、二重の幕が開き、みんなで一礼する。照明でよく見えないけれど、客席からは確かに拍手が聞こえる。すぐに幕が閉じる。終演のアナウンスが遠くで聞こえる。劇場を後にして、職員さんがチケットブースに鍵を置くと、おもむろに伸びてきた腕が鍵を回収し、ツアーが終了する。

あまりにもエモーショナルで今にも泣いてしまいそうになりながら、回りきった。初めてこの劇場を訪れた私ですらこれなので、馴染みのある人たちや高槻市民の人たちの感慨はいかばかりだろう。

初めにも書いた通り言葉によるガイドは淡々と控えめだけど、言葉にし尽くせない愛と敬意がこもっている。建物の隅々を巡って、いかに多くの人たちが訪れ、思い出を築いてきたかを体感して、拍手を送り、最後には目の前で"幕が降りる"。役目を終えた劇場への最高の餞すぎませんか。高槻現代劇場、最高に幸せ者だと思う。

そして、何度も何度もここで反復し営まれてきたであろう公演や式典を、石積みと舞台上で見る、見られるを時間差で反転させることで体感させること。ただ単に舞台上で行われるような狭義の意味ではなく、この場で営まれてきた全てのパフォーマンスへの愛と敬意でもある。

それは、過去に積み重ねてきたものだけでなく、このツアーに参加する今現在の営みにも注がれている。

当然ながら、前もって入念に練られた段取り、一種の物語に沿って我々は導かれるわけだけど、ツアー中にリアルにトイレに行く人と鉢合わせしたり、さっきまで自分達がいた待合室で誰かが寛ぐ様子を眺めたり、おばさま達が元気よく発声練習をする習い事の部屋を通り過ぎたり、窓の外、駆けていく小学生たち、タイミングよく聞こえるカラスの声、静寂を破る赤ちゃんの鳴き声、掲げられたカーテンをはためかす風、全てが今この時しかない、特別なものに思える。それは、リアルとフィクションが接続された時のスリリングな快感でもあり、なおかつ、どんなに些細な現象や出来事であっても、わたしにとってすべてが特別な意味を持ち、この場所の思い出として自分の心に積み重なっていくような、温かい気持ちでもある。

そして、ここから演劇クエストを片手に外の世界へ繰り出す。キリシタン大名高山右近をはじめ歴史ある街で寺社仏閣もあり、お店もたくさんあって、住みやすそうな街。公衆電話を使ったのなんて何年ぶりだろう。時間の都合もあって(1時間遅刻したし)、プロローグだけ楽しんだんだけど、知らない街の、普段なら見過ごしがちな知らない道を歩み進めていく心地いい疲労感を味わえた。

 

いやー…この企画、期待以上に素晴らしすぎた。旧劇場は閉館、新劇場は建設中という、いわば「何もなさ」を逆手に取り、インタールード(幕間)と銘打って今しかないひと時を2つのパフォーマンスの合わせ技で可視化するって、あまりに最高すぎるのでは。

最初に案内してくれた職員さんが発起人の1人と仰ってたけど、地方自治体にそんな考えの人がいると思っただけで泣いちゃう。素晴らしいよ。

特に「9月0才」に関しては、明らかに高槻市民向けの企画だったと思うんだけど、幸せな記憶のお裾分け、本当にありがとうございました。郷土愛と芸術に対する真摯な思いを存分に受け取りました。新劇場、必ず行きます。

 

ちなみに、あまりに素晴らしいプロジェクトだったので、SNSでも強く推したいという気持ちになったのだけれど、わたしの語彙力では(特にTwitterは長々書けないので)うまいこと魅力が表現できず、普段からついつい「〇〇(特定のジャンルや作品名)が好きな人にオススメ」と逃げがちで。でも、会話やブログのようなセンテンスの中での類似ジャンル・作品の話とはかなり違って、端的すぎるというか無粋すぎるというか"消費"感あるよね。書く側もそのフレーズにのみ脊髄反射する側もなんか良くないな…と思ってやめた。特にこのプロジェクトはその括りで簡単に消費していいものだと思えなかったから。

 

ずっと記憶に残るであろう、唯一無二の素晴らしい体験だった。