だらだらノマド。

趣味、日常をゆるゆる綴るライフログ。

寂しさは鳴る/6/18~29よもやま。

とうとう梅雨が来てしまった。左耳が憂鬱に鳴っている。それでも毎朝5分ストレッチするだけで、ずいぶん心持ちが楽だし、毎朝NHKしか見なくなってからかなりストレス減った。ただし「なつぞら」を見ながらむせび泣いてメイクするので顔はボロボロ。

0618
ゴールドフィンガー'99が後輩に伝わらなくて、令和時代の到来を実感した。
「凪のお暇」を読み始める。

ライフハック術がふんだんに挟み込まれるのは最近の流行り? 2巻時点では、共感とか知恵を得る以前に、我聞への殺意しか湧いてこなくてどうしよう。

 

0619
気になっていた「バニシング」を観に行く。

オランダからフランス旅行にきたレックスの彼女 サスキアの失踪を描いた1988年オランダのサスペンス映画。ミステリーかと思いきや、犯人は早々に断定されて、犯人サイドへと視点が移る。犯人は、典型的な「良いパパ」の大学教授、レイモン。興味関心に歯止めがかけられず殺人をも厭わない、いわゆるサイコパス的人物なわけだけど、その片鱗は誰にも見せない。むしろ緻密にシミュレーションを重ねる割に、いざとなると獲物の女性を上手く車に誘い込めないレイモンはあまりに人間臭く、可愛げすら感じる。計画がうまく運ばない中で、偶然がいくつも重なってひょんなことから餌食になったのがサスキア。レイモンが妻や娘たちから誕生日プレゼントにもらった品々たちがこの偶然をサポートしているという皮肉に背筋が凍る。
サスキアが冒頭で語る「永遠に真っ暗な宇宙を彷徨う金の卵の夢」のイメージはあらゆるところに隠れてる。トンネルのあちら側の丸く切り取られた光、対向車のヘッドライト、木の根っこに埋めた金貨、親指が破けた靴下、そして、二人が人生を終えることになる棺桶の暗示で集結するかと思いきや、レックスとサスキアの写真が載った新聞記事の楕円形まで、本当に最後の最後まで、あまりに綺麗に繋がる。閉所恐怖症のレイモンが考えうる最もおぞましい死が、一片の「金の卵」の物語に収れんしてしまう怖さ。考えれば考えるほど、ぞっとする…。
 
0620
無理やりの休み。家の中に引きこもって、総歩数100歩ぐらい。放送時間が変わってしまってから滅多に見れなくなった「サラメシ」の再放送をやっていて、いたく感動する。南極料理人昭和基地で生活するメンバーの食事のため、30トンあまりの備蓄食料(途中で補充はされない!)を1年8ヶ月、1日の休みもなく調理していく。そもそもの話、南極にこんなに技術者が集結してるなんて、知らなかった。まずはその特異な環境や生活への驚きと、南極料理人のずば抜けた計画性、献立力に脱帽。しかも、全て冷凍、冷蔵の食べ物とはいえ、食卓を見る限りメニューも豊富、彩りも鮮やかで、我慢してる感0。ふつうにめちゃくちゃ美味しそう。
専門の垣根を超えた共同生活も、南極料理人としての働きっぷりを映像で初めて見て「天職だね」と微笑む家族の姿も全部、心に沁みた。この神回見るためだけでも、休んでよかった。
 
0621
前の日トンカツだったのに、わんぱくランチの誘惑に抗えなかった。お肉屋さんのハンバーグ。肉汁じゅわっと、おいしい。

 

0622
休み。やっと「ゴジラ キングオブモンスターズ」を観に行った。日本版ゴジラシリーズ(昭和~平成)のパーツの寄せ集めみたいな感じ。膨大なタスクをこなそうと、終始慌ただしくドンパチやっていて、今どこで何が行われているのか全くわからず、ひたすら混沌。パニック映画としてはある意味正しいのかもしれない。2014年版の続編という位置づけで、前回のゴジラ襲撃によって息子を失った母親が、不条理な死を何とか受け入れようと(この間見た「獣の柱」のように)、人間たちが自然破壊や戦争を止めない世界に、調和をもたらすのがゴジラたち怪獣という考えに至り、研究施設で保護している怪獣たちを、兵器使用とか人間たちに良きように使用される前に解き放とうとするんだけど、自分たちはギリ逃げつつ、他の市民たちをめちゃくちゃ巻き添えにしながら解き放っていくので、いや、それがもろに兵器使用やねん!と思って、前半は死んだ目で見ていた。しかも、こちとら最終兵器的に考えてるオキシジェンデストロイヤーが「今そっちに向けて撃ったから逃げた方がええで」な事後報告扱いで発射されたり、危険なエリアにわざわざみんなで突入していったりと、計画性が皆無。

伊福部さんの音楽を要所要所で使ってくれているのは嬉しいのですが、日本へのサービス精神があふれ過ぎたのか、ソイヤ!ソイヤ!感が強かったり、まさかのモスラの歌まであって、インファント島とか小美人の設定がないまま、いきなりどんどこどこどこ太鼓が鳴り始めるので、さすがに映像とのギャップ!ってなった。他にも、海底の古代神殿に描かれたゴジラの壁画に思いっきり「ゴジラ」ってカタカナで書いてあったのも笑えた。

事前情報を入れずに日本語吹き替えで見てみたら、主人公のおっちゃんの声が明らかに顔とあっていなくて、全く喋る内容が頭に入ってこない。もしや…と思ったら、田中圭でした。いやいやいや…演技力とか以前に、せめてビジュアルにあった声の持ち主にオファーしてくれや…。

逆に、良かったのは、大好きな「地球最大の決戦」と同じく、キングギドラモスララドンが集結していたこと。「地球最大の決戦」はタイトルのスケール感の割にとある山上でしれっと決着がつくので、彼らが本気で戦うとこうなるのか…と納得。地味キャラだったはずのラドンがやたらカッコよかったのもよかった。が、「地球最大の決戦」のゴジラモスラ(幼虫)、ラドンが結託してキングギドラをやっつけるという図式が好きで、ラドンモスラを背中に乗っけて攻撃を仕掛けるのはおもちゃでも何度も真似したくらい最高のシチュエーションなのですが、あろうことか、ラドンキングギドラ側について、モスラを攻撃するので、なんでやねん…!(混乱)ってなった。半面、モスラは安定の役回り(生命、死、祈り、鎮魂に結び付く)で、あまりにもモスラらしすぎて泣いた。渡辺謙演じる芹沢博士が1954年「ゴジラ」の芹沢博士のシチュエーションをなぞりながら死んでいく時の日本語の台詞「さらば友よ」も良かった。これは日本人しか言えない台詞ですね…。

人間が怪獣を制御/駆逐しようとする→技術・戦闘能力的に可能なのか→いや、そもそも制御していい存在なのか っていう怪獣との関係性の揺らぎも、各地の神話に怪獣が登場する(過去から共生してきた)のも日本のシリーズで何度も出てきた設定で、それ自体はすごく好き系だったのですが、キングギドラを倒したゴジラが最終的に「ライオンキング」的に他の怪獣たちに傅かれるっていうのには解釈違いを起こした。しかもさっきまで敵だったラドンが寝返っている。確かにゴジラは怪獣の「王」であり「神」ではあるけど、そういう単純なヒエラルキー上の話ではないと思うんだけどな。わざわざ各地の神話と結びつけながらでもそう収まるのが不思議に思えた。ともあれツッコミどころも含めて見てよかった。ゴジラ愛がたぎった。

 

0623
「切られの与三」を観た。
コクーン版「切られ与三郎」。そもそも通しで掛かる機会がなく、ほぼあらすじすら知らなかったので、えげつなく人殺すやん…とか、お富何者やねん…怖いわ…とか、そもそものストーリーに驚き。
これまでのコクーン作品と比べると、中盤まで断片的なシーンの連続で小品なものの、勘九郎芝翫もいない中での七之助主演作品としてはぴったりだと思った。前半は落語の語りを重層的に取り入れたり、音楽でぶつ切り感を緩和しながら、物語の不出来さを逆手に取った、現実感のなさ、悪夢の只中にいるような気味悪さが露呈してくる後半へと橋渡していた。
野田秀樹三谷幸喜の歌舞伎作品を見てしっくりこなかったのは音楽。コクーン歌舞伎では串田さんが毎回違ったアプローチを試みてて(クラシック、椎名林檎、ラップまで)、今回はジャズ。前半の与三郎とお富のラブストーリーはめちゃくちゃポップに、後半はそこに疾走感あるリズムを足しこみながら、感覚としてはライトにふわふわと夢心地でいさせてくれる。これがまるでミュージカルで、ファンタジック。与三郎とお富が見つめ合えばいい感じの曲が鳴り始めて、今にもデュエットが始まりそう。(実際中盤でみんな歌い出すし、踊りや場面転換もミュージカル風だったりする)最初こそ違和感のあったものの、この音楽がだんだん馴染み、後を引いた。
コクーン歌舞伎は、古典歌舞伎を演劇として捉え直す企画。大きなうねり、力を持った狂言を二巡、三巡するうち、「天日坊」からはより今的な感覚が強まった。与三郎の生き様は「天日坊」のアイデンティティ探しと共通しつつも、勘九郎のエネルギーや強い求心力をもって突き抜けていく「俺は誰だぁ!?」のストレートな叫びと違って、現実を真正面から捉えるにはあまりに柔すぎて、夢うつつの遠近が定まらない。傷を引き受けた後もひたすら駆けていく(生死も夢か現かもわからない)のが、あぁ…なんかめちゃくちゃ「真夜中の弥次さん喜多さん」やん…!と思って、胸熱。こういうのは七之助の十八番なんですよね…!(興奮)
そして、もうひとつ。今回、元々の物語がちゃんと書けてないせいだと思うんですが、お富の存在がかなり怖い。与三郎が坂を転げ落ちていく一方で、お富は身をもち崩すことなく今まで通り難なく暮らしている。男性に「取り憑き」、姿も生活もまるで変わらず現実感の薄いお富は、ある種の「幽霊」なのかもしれない。だから、ひたすら駆け抜けていく、与三郎の足を羨む。

一方で、与三郎からすると醒めない悪夢の只中に放り込まれたよう。本来の「切られ与三郎」では薬と条件付きの生き血を飲んで与三郎の傷は全快、お家再興という歌舞伎らしい大団円を迎えるらしいけど、そこはコクーン。「全てをなかったことになんて出来るのか」と自問自答し、薬を投げ捨てて、傷だらけのまま、ひとり疾走していく。生きることを受け入れる、誰かに付けた傷も自分の傷跡も、痛みも、生の痕跡、爪跡も全て引き受ける。「西洋骨董洋菓子店」の千影の台詞を思い出した。「あなたと何も無くはなかったですよね…。」

「なかったことにする」=リセットすると簡単に言えど、「しがねぇ恋の情けが仇」なわけで、不幸を消せばその「恋の情け」も、これまでの人生すら、まるまま否定してしまうことになる。生きていさえすれば、傷口をかさぶたがふさぎ、やがて新しい皮膜が覆い、癒えていく。我々みんな、傷だらけの与三郎なんだな。
ヘルタースケルター」で、りりこと都市の「皮膚」がリンクしてたように(どちらも人々の欲望のまま変貌をやめない)、与三郎の傷と背景の現代的な工事風景が繋がっている気がした。膨大な「与三郎」たちの営みや災いの痕跡が地層のように積み重なり続けて(0にリセットできないまま)、今ここがある。そして、これからもずっとずっと果てなく続いていく、生き続ける皮膜がこの世界なんだなー。


あぁ…コクーン歌舞伎って本当にいい企画だな…。伝統芸能だからこそ、芸や狂言を継承する一方で、時代に応じて捉え直しをして今に再接続する作業が大事。歌舞伎の振り幅は年々大きくなっているけど、そもそも芯をつかみいく企画はなかなかないんですよね。コクーン歌舞伎には、「四谷怪談」で衝撃を受けてから、今までずっと心を打たれ続け、ときめき続けてる…。

 
0624
母が「魏志倭人伝」観に行ってくるわ!と出かけていった。多分、「壬生義士伝」。
 
0625〜0628
仕事。匍匐前進レベルのスピードでしか物事が進まないけど、クラッシュを免れているだけまだマシか。ゲンロンと美術手帖が面白い。

 

0629

東京03 FROLIC A HOLIC「何が格好いいのか、まだ分からない。」を見終わる。豪華ゲスト、生バンド付で、コントと演劇を自由に行き来するパフォーマンス。かなり尻すぼみ気味ではあったけど、面白かったー。

マリー・アントワネット」を見る。 

 もう10年以上前の作品なのに、衣裳や美術の異常な可愛さで女性人気が滅茶苦茶高いガールズシネマ。ビジュアル中心に語られがちな映画だけど、歴史ドラマとしてではなく(王宮の外の世界は一切写らない)、一人の女性の生き方として描かれていて、苦しかった。いつかの失言「女は子供を産む機械」そのままに、異国の地の王妃になり、世継ぎを「産む」こと(産めば終わりで育児は乳母の仕事)しか存在意義を与えられないアントワネットの虚しさ。悲しいかな、多くの男性には届かないだろうこの感覚。アントワネットもエリザベートも、あれだけの地位を持ってですら、ただ、自分の人生を生きていく(私は私だけのもの)ことがままらなかった。アントワネットは革命によって状況が一変する中で「最後まで国王と共に」という存在意義を自分で選び取るわけだけど…。

ところで、「1789」のアントワネットもこの映画のイメージが少なからず含まれてると思ってるのですが、このポップなガールズ文化と結びついたアントワネットのイメージって、この映画以前にもあったんだろうか。