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『アラジン』と『千と千尋の神隠し』感想。

『アラジン』と『千と千尋の神隠し』の感想です。

 

『アラジン』@四季劇場[海]

珍しく出張に中休みができたため、大阪にやってくる気配のない『アラジン』を観てみることに。初めて行く劇場だったけど、なんだか不思議な、方向音痴にはとっても辛い施設に入っていた。

キャストはこちら。四季に疎い私でも知ってる阿久津さんの名前があって、ちょっと安心感。

幕開き。砂漠からエキゾチックなダンスシーンに展開していく「アラビアンナイト」には大感激。転換の美しさ、色とりどりの豪華な衣装…こういう異国情緒全開なの最高。本来、宝塚の専売特許的な世界観だと思うのだけれど、年々何もかもしょぼくなって夢を見せてくれないので、そうそうこれこれー!と胸が躍った。

しかし、その後なかなか物語が進まないというか筋らしい筋がない。アニメ版もこんなでしたっけ…?それに、やはり物語を引っ張るのには華やオーラが必要なわけで。KAT-TUNの中丸くん風味のアラジン、少々の物語の破綻くらいなら目を瞑らせるような求心力のあるタイプではないので、ジーニーが出てくるまではかなりしんどかった。

アニメ版に出てくる猿のアブー、虎のラジャーは出てこず、ジャファーの手下イアーゴーは人間に置き換えられているし、この作品の目玉になってる魔法のじゅうたんも、飛ぶだけでキャラクター性はない。他のディズニーミュージカルよりも、かなりキャラクターを削いだ形になっていた。その代わりに登場する、ミュージカルオリジナルキャラクター アラジンの友人3人組が、キャラ立ってるようで芝居が上手く噛み合っておらず、コメディリリーフとして全くといいほど機能してない。でも、常にアラジンと行動を共にしているので、かなり出番が多いんですよね‥。これが辛さの原因の一つでもある。

1幕も終盤に差し掛かるところでようやくジーニーが登場すると、さすがに盛り上がる。「フレンドライクミー」はテーマパーク的な仕掛けと、これぞミュージカル!なショーシーンが掛け合された、贅を尽くしたナンバー。
ただ、同時にジーニーの難しさも見えてくる。メタ的視点を持ったストーリーテラーかつ歌もダンスも客席いじりもできて場を華やがせるエンターティナーってめっちゃ難しくないですか‥。阿久津さんは、センター立ち慣れてる貫禄は確かにあるし華もあるんだけど、段取り感が強く、もっとエネルギッシュさがほしい。とはいえ、四季以外でもこの役ができそうな人は思い付かず、本当に難役なんだと思う。

そう、ジーニーに限らず全体的にメタネタが多く、笑いどころもたくさんあるはずなのに、ことごとく滑るんですよね。。。母音法の不自然さは直近で見た「リトルマーメイド」ほど気にならないのに、全体的に芝居のテンポ感がもたついている(特に友人3人たちの場面)からなんだろうなーともったいなく思った。

冒頭で書いたとおり、こんなに筋のない作品だっけ?とびっくりしたんだけど、テーマは、アラジン、ジャスミンジーニーの三者三様の「自由」にわかりやすく絞られている。あと、ミュージカル版として「自慢の息子」というアラジンの新曲が何度もリプライズされて、「亡き母が自慢に思える息子になりたい」と誠実な生き方を誓う。この曲が作品の核になっているのだけど、音楽としてもテーマとしてそれほど引力は感じない。

仕掛けたっぷりの舞台(魔法のじゅうたんの仕掛けどうなってるんだろう)には確かにテンションが上がるけど、物語が極端に弱いので、キャラクターショーの延長線というイメージだった。いやそれでも久しぶりに豪華絢爛な世界を観られて、そういう意味ではワクワクしたんだけど。

千と千尋の神隠し』(上白石回)@配信

元々大好きな作品で、この舞台版も見る機満々だったのが、まさかの長期出張とドン被りで全く観れず…。いつか見る日のために、できる限り事前情報を入れまいとしたものの、初日早々に舞台写真が目に飛び込んできてしまい、この「忠実な再現」はわたしは舞台に求めてないなぁ…と正直冷めてしまったり。とはいえ、千秋楽にライブ配信(上白石さん回は公演中止のため帝劇公演の録画配信になった)があるということで、ようやく念願叶って見られることになり、数日前からワクワクが止まらなかった。

冒頭から想像以上に映画そのままだった。衣裳も台詞も音楽も喋り方まで。ここまでの「忠実な再現」が必要なんだろうか?という疑問が頭をもたげる。初日早々に観た舞台写真の通り、これを静止画で切り取ってしまうと、ダサいキャラクターショー寸前という感じなのだけど、ある意味、この超保守的なセンスは帝劇らしさという意味では何ら不思議ではなく、一貫してるのかもしれない。

キャラクターをパペットで演じたり植物を人間が表現するのも「ライオンキング」と同じといえば同じなのだけど、「ライオンキング」がアニメを再現するためではなく舞台表現の可能性を突き詰めていったのとは全くの別物で、あくまで原作に準拠して二次元と三次元の捩れを解決させるための手段としか機能していない。

何より驚いたのは、主要キャラの芝居(特に声音)をアニメに寄せまくっていたこと。Wキャストを制覇せず書くのもなんだけど、ダブルキャスト制ってリスクヘッジと共に表現の幅を増す大事な手法だと思っているので、これで果たしてそれぞれの個性が発揮できたのだろうか?と心配になってしまった。2.5次元ならではのジレンマかもしれないけど、ここはもう少し丁寧に向き合った方がいいと思う。

一方で、油屋の圧倒的なそして複雑な美術・世界観・構造はとことん簡略化せざるを得ないわけだけど、これだけ原作をなぞっているのに映像使用は最小限にとどめ、しっかり物理で解決していくジョン・ケアードらしい滑らかな舞台転換はちゃんと活きていて、こちらの世界からあちらの世界へ、それに、あちら側の世界の複雑な場所移動をうまく表現していた。

ただ、初めて釜爺に会いに行く時のスリル満点の移動シーンは、アニメなら見どころになりうるけど、舞台であれだけ時間をかけて表現するのにはもうちょっと工夫がいるのでは。湯婆婆の部屋を訪ねるシーンやハクに連れられ豚になってしまった両親に会いに行くような移動が重要な意味をなすシーンの移動・躍動感も、人海戦術を駆使していたものの、毎回同じような演出や動線が続くのはさすがに気になってしまった。

あと、これも移動の一つではあるけど、電車はもう少しやりようがあったんじゃないかなーと。アニメで感じたあの美しく物悲しい空気感は、あの上辺だけのなぞり方では出ない。

逆に、舞台版で面白かったのは、特に1幕で、油屋で神様を迎える賑々しい歌や踊りが多用されていたこと。やがて八百万の神様も人間も渾然一体となって祝祭性を増していくのが、変にミュージカルもどきにならず、日本の土着の芸能、もしくはパフォーマンスの起源を見るようで、「千と千尋」の新たな面を見た気がした。
あと、歌でいうと、1幕の終わりに油屋で働く女たちが「6番目の駅」に新たに歌詞をのせて歌うシーンがあって。ミニチュアの電車が走っている様子、リンの「いつか海の向こうの街に行ってやる!」の台詞と共に、アニメとはまた違った独特の寂寥感が漂って引き込まれた。久石さんの音楽は、舞台にはあまりに雄弁すぎるとは思うのですが、やはりいい曲であることに違いはなく、感情を揺さぶられますよね。(新曲ありました?なんかカオナシダンスあたりはしっくりこなかったんですが…)
舞台ならでは、といえばもう一つ。咲妃みゆさんが千尋のお母さんとリン、大澄 賢也さんがお父さんと兄役の二役を演じ分けていて、こちらとあちら側の世界のつながりを感じさせてくれたのにはかなりグッときてしまった。特に、どこか娘に無関心なお母さんとあちら側で千尋を導くリンが同じ役者さんって、なんかいいな(泣)。

というか、咲妃さんが本当に素晴らしかったんですよね。(これだけ忠実な再現を否定した後でこの言い方もなんですが…)アニメから抜け出てきたようなお母さんとリンで、ちゃんとこちらとあちらの世界の人物の演じ分けがされていて。特にリンに関しては、華とカッコよさが同居してて魅力的だった。正直、観る前は、咲妃さんのイメージにない役だったので、妃海さんの方が合ってるだろうなと勝手に思ってたのですが、いや本当に本当に素晴らしかったです(男前になるとちょっと早霧さんっぽい表情になりますね)。

上白石さん@千尋は、東宝芸能はこの作品のためにずっと育ててきたのでは・・という程のしっくり感。湯婆婆が一番難しく、このキャスト次第で作品全体が大きく変わるだろうなーと思ったので、夏木さん版も観てみたかった(朴璐美さんはちょっと芯を外してるかなと感じてしまった。)ハクは伝統芸能の御曹司でやったら雰囲気出そうだなー(染五郎くんとか‥)

舞台版の唯一と言っていいほどアレンジされたカオナシは菅原さん。「忠実な再現」に囲まれた中では、効果的とは思えなかった。あの仮面つけたままだし。2幕で本領発揮かと思いきや巨大化して複数で「遣う」ことになるので、1幕の取ってつけたようなプチソロシーンくらいしかダンサーであることの見せ場はないんですよね。このシーンだけでも、アニメの存在の希薄な不気味さとは打って変わった、チグハグで攻撃的な不気味さは確かに感じるのですが、もっとうまく入れ込められないのかなと思った。あと、ちょっと心配したのは、変身後の坊や湯婆ードって、生で観た時(3階とかから)の視認性ってどうだったんだろう。

…と、ぶつくさ言いながら、ほぼ全編感極まって泣いていた。ただ、あのラストには涙が引っ込みましたね…。千尋がこちらの世界に帰ってきて、銭婆からもらったヘアゴムがキラッと光るっていうのは、舞台ではそのキラッができないからわかりにくいという判断だったんだろうか。

だからといってあそこでもう一度ハクが出てきたらぶち壊しだと思うんですよ。振り返らずに日常に戻っていく千尋の姿と表情と共に「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで…」 を静かにかみしめる時間がほしいのに。あの結末はめちゃくちゃチープだと思いました。なぜここまで原作に準拠しておきながら一番大事なところを変えてしまったんだ…(頭を抱える)